『いちばんすきな花』4人の関係に親近感? 椿の家にみる“サードプレイス”の重要性
『いちばん好きな花』(フジテレビ系)が最終回を迎える。あなたはこの作品をどのように受け止め、自身の日常においてどう位置づけてきただろうかーー。 【写真】『いちばんすきな花』2人で夕食を食べる椿(松下洸平)と夜々(今田美桜) 本作は、この社会で生きる者たちの“居場所”をめぐる物語だと筆者は思ってきた。いや、事実そうだろう。4人の主人公は幼い頃からつねに自分の帰属するコミュニティに違和感をおぼえていた。そんな人々が心地よくいられるコミュニティーーサードプレイス(第3の居場所)ーーに本作はフォーカスしてきたのだ。いまやこの『いちばん好きな花』こそがサードプレイスになっている視聴者もいるのではないだろうか。 改めてここで本作のあらすじを記すと、年齢も職業も異なる4人の男女が特別な関係性を築き、交流をしていくというものだ。塾講師の潮ゆくえ(多部未華子)、実家が花屋で出版社勤めの春木椿(松下洸平)、東京・表参道で美容師として働く深雪夜々(今田美桜)、コンビニでアルバイトをしながらイラストレーターとしての夢を掴もうとする佐藤紅葉(神尾楓珠)の4人がひょんなことから接点を持ち、これがやがて特別な“つながり”に発展。気がつけばお互いが特別な存在になっていた。 彼ら彼女らの関係性を羨ましく思う人は少なくないのではないかと思う。 人間関係というものはとかく面倒くさい。職場での上下関係はもちろん、ただ同じ年に生まれたというだけで少年少女はひとつのクラスに押し込まれる。誰だって多かれ少なかれ自身の“役割”を演じ、それぞれのコミュニティごとに適した振る舞いを求められる。ああ、面倒くさい。これこそが社会参加への第一歩なのは事実だが、こればかりだと心も体も疲れてしまう。だから私たちにはサードプレイスが必要だ。『いちばん好きな花』の4人にとっては「春木椿の家」がそうである。 ここで交わされるやり取りは、とても心の休まるものだ。“場=環境”を維持するための役割はあるが、個人のキャラクターにまで何かを求めることはない。似た価値観を持つ4人の男女が、どこの誰といるときよりも自然体で自由でいられるだけだ。 けれども、男女が一緒にいるだけで「恋人同士?」などと聞いてくる人間は世間にごまんといるし、男女が定期的に集まっていれば、偶発的というよりはほとんど必然的に「恋人同士」が誕生したりもする。こんな関係性が末長く続けばいいのだが、「友情」と「(恋)愛(感)情」を取り違えた人々の関係が継続しないのは世の常だ。この点の認識がズレた人間がひとりでもいると、せっかく生まれた特別なコミュニティは瞬時に崩壊する。「親しき仲にも礼儀あり」は当然であり、他者とのコミュニケーションはある種の緊張感を持って臨まなければならない。この前提があるからこそ、『いちばん好きな花』のようなコミュニティは存続できるのだ。 実際のところ、この4人の信頼関係が発展していくにつれ、恋愛の気配は生まれた。筆者としてはこの展開に少しばかりガッカリしたものだが、男女が集まればやはりしょうがないのかもしれない。思い返してみれば、現実で似たような展開に直面したことは何度もあるのだ。 だけども『いちばん好きな花』の4人は少し違う。彼ら彼女らは自分たちの心地よい居場所を守るため、感情をセーブする。これに関しては異を唱えたいとも思った。誰もが控えめなのだ。特定の個人と築きたい特別な関係性があるのならば、コミュニティにヒビを入れてでも主張をすべきだと考えるからである。しかしこの4人はそれを避け、何よりもコミュニティの存続を望んでいる。 筆者にもこういうサードプレイスがある。社会的な立場やある種の格差、付き合っていくうえでの損得勘定のないコミュニティである。ここでは自身の仕事について熱く語ることなどないし、集まっても他愛のない話しかしない。誰も他者を否定せず、かといって全肯定するわけでもない。ただただ受け入れ合うのだ。もしもみんなで仕事に取り組む場合、ただただ受け入れ合うだけではプロジェクトは成立しないだろう。しかし、このコミュニティはそういったものから切り離されたもの。絶対に失いたくはない。4人の関係に、親近感を覚えずにはいられないのである。 「春木椿の家」という集まる場を失ったとき、4人はどうなるのだろうか。コミュニティとは人が集まり生まれるものだが、やはり“場所”の力は大きい。けれども、もっとも重要なのはやはり“人”だろう。“居場所”をつくるのはいつだって“人”なのだから。 この息苦しい社会をサバイブしていくためには、心と体を休められるサードプレイスが必要だ。それは何かに縛られることのない、特別な人間関係のことである。
折田侑駿