40年以上の歴史に幕!「こまばアゴラ劇場サヨナラ公演」
あの細い階段を登った先に、果てしない世界が広がっていた
こまばアゴラ劇場では、いまも胸に残るいくつもの名作を観た。 「日本ではまだそうはなっていないが、欧米では劇場に観客がついている」と聞いて、いつも思い浮かべるのは、こまばアゴラ劇場のことだった。アゴラに行けば、面白いものが観られる。幕が上がるまでどんな作品かわからず、ゆえに当たり外れが多い演劇というジャンル、とくに小劇場ファンにとって、こまばアゴラ劇場はとても大きな存在だった。 私が演劇を見始めた2000年代、すでにアゴラは特別な場所だった。渋谷から二駅だけ電車に乗り、東大生たちと逆の出口を出て歩く劇場までの道を一歩一歩進むごとに、これから観られるものへの期待が膨らんでいった。あの細い階段を登った先に、どんなに詰めても60~70人入ればいっぱいのあの場所に、果てしない世界が広がっていた。 下手にある地下につながる穴や奥にあるエレベーターも、作品によってどんどん姿を変えた。2017年の山下澄人と飴屋法水によるHEADZ『を待ちながら』のときは、一度も通ったことのなかったルートを通って、ふだんとは違う場所にしつらえられた客席に向かった。あんなに何度も行った場所なのに、全然違って見えた。高校演劇サミットで、すぐそばの筑波大学附属駒場高校の作品に度肝を抜かれたのもここだった。ロロ、鳥公園、贅沢貧乏、庭劇団ペニノ、ままごと、ハイバイ、ニッポンの河川、玉田企画、ゆうめい、そしてもちろん青年団……。挙げはじめたらきりがない。 いい芝居を観た後は、興奮して落ち着かなくて、あるいはじっくりと余韻を味わいたくて、渋谷までの道を電車に乗らず、歩いて帰ることも多くあった。 いくつもの挑戦的な作品が観られた背景には、2003年度からこまばアゴラ劇場が貸館をやめ、すべての作品を劇場主催の「こまばアゴラ劇場プロデュース」公演にしたという状況があった。芸術監督の平田オリザをはじめとする劇場側が上演作品を選定していた、その目がずば抜けていたのだろう。劇場使用料が無料であった分、若い団体にも等しくチャンスがあった。本来であれば公共劇場が担うべき役割だったとも感じるが、個人が運営しているからこそできたことも多くあったのだろうとも思う。 ただただ、わたしたちは本当に貴重な場を喪ってしまった。この先は、平田がいま拠点としている兵庫・豊岡での活動を含め、新たな息吹を期待したい。 文:釣木文恵 <公演情報> こまばアゴラ劇場サヨナラ公演 青年団第99回公演 『S高原から』 作・演出:平田オリザ 2024年4月5日(金)~4月22日(月) 青年団第100回公演 こまばアゴラ劇場地域貢献公演 『銀河鉄道の夜』 原作:宮沢賢治 作・演出:平田オリザ 2024年4月25日(木) ~4月29日(月・祝) 青年団第101回公演 『阿房列車』『思い出せない夢のいくつか』 『阿房列車』 原作:内田百閒 作・演出:平田オリザ 『思い出せない夢のいくつか』 作・演出:平田オリザ 2024年5月8日(水) ~5月15日(水) <こまばアゴラ劇場のあゆみ> ■1984年 こまばアゴラ劇場開館 ■1986年 平田オリザが支配人に就任:この年より劇団「青年団」はこまばアゴラ劇場を拠点に活動開始 ■1988年(~2000年)「大世紀末演劇展」を開催:地方劇団の連続上演企画としてスタート ■1990年 道路劇場「風のマント」バヌアツ公演をサポート ■1993年 「日韓ダンスフェスティバル」を開催:日韓両国で活発に活動する30代を中心とした舞踏家を集めたダンスフェスティバル。1993年から2000年まで平田オリザがフェスティバルコーディネーターを務めた ■2001年(~2010年) 舞台芸術フェスティバル「サミット」を開催:演劇の可能性を模索するアーティストと観客が劇場で出会い、演劇の次なる領域を共に探っていくことを理念とし、年に冬と夏2回開催。岡田利規や杉原邦生がサミットディレクターを務めた ■2003年 通常の貸し小屋業務を停止し、全ての演目を芸術監督とプログラムオフィサーによって選定。全公演を「こまばアゴラ劇場プロデュース」として劇場主催にし、劇場費を無料に。こまばアゴラ劇場支援会員制度を開始 ■2011年(~2012年) 主催演劇祭「サマーフェスティバル<汎-PAN->」開催:矢内原美邦がフェスティバルディレクターを務めた ■2013年(~2018年) こまばアゴラ演劇学校“無隣館”を開校 ■2015年 京都のアトリエ劇研との包括提携を結び、劇場支援会員の連携を開始 ■2024年5月 閉館