回想おおさかの夕刊紙 20年ぶりに大阪市政記者室へ
昨年暮れ12月21日、大阪市役所の市政記者室で行われた吉村洋文新市長の就任会見を取材した。筆者が同記者室に足を踏み入れたのは、やや大げさな表現を許していただけるなら、今世紀初めて。おそらく20年ぶりだろう。歴代市長の顔を思い浮かべながら、記者室へ急いだ。
記者席の一遇で新市長の登場を待つ
同日は「THE PAGE大阪」編集部のYデスクが会見動画中継のため、開始の2時間前からカメラのスタンバイ。「THE PAGE大阪」は市政記者クラブには加盟していないが、大阪市や記者クラブの了解を得て取材が可能となった。同編集部の契約記者である筆者は「THE PAGE」の腕章を付け、記者席の一遇で新市長の登場を待った。 昭和の終わりから平成の始めにかけて、筆者は「関西新聞」「新大阪新聞」記者として、断続的に市政記者クラブに在籍し、市政報道を担当していた。 かつては記者クラブ規定の運用が厳密で、加盟社の社員記者しか入室できなかったはずだから、筆者にとって三紙目の夕刊紙となった「大阪新聞」の契約記者時代は入室していない。おそらく最後の入室は1995年に「新大阪新聞」が休刊する直前までさかのぼるだろうから、およそ20年ぶりのことだった。
電話で原稿を読み上げて送稿した時代も
筆者が初めて市政を担当したころ、原稿は手書きだった。原稿は本社編集局に集められ、紙面に盛り込まれて読者に提供される。取材編集作業のあれこれのエピソードに関しては、随時ふれていくことになるだろうが、締め切りが早い夕刊紙の場合、当日の取材記事を当日の紙面に掲載するためには、およそ3つの方法があった。「事前の予定稿作成」「原稿のファクス送信」「原稿の電話送り」だ。 最後の「原稿の電話送り」は、人から人へ。取材現場で原稿を書き上げたら、編集局に電話して原稿を読み上げ、相手にひと文字ずつ書き取ってもらう。通称「電話取り」だ。締め切り前だから、時間がない。「電話取り」の記者が頼りない場合、えらいことになりかねない。 交通事故や火災などの発生ものの記事で、杭全、放出、喜連瓜破など、本サイトでおなじみの難読地名が出てこようものなら、たいへんだ。「ク、クマタ? どない書きますの?」と悠長なことを言っていると、「あかんやっちゃな、はよ誰かと変わらんかい!」と、受話器越しにガツンとやられてしまう。慣れないうちはわずか30行の原稿をやりとりするにも大騒ぎしたものだが、今は違う。