【特集】ノーベル平和賞を糧に…戦争の記憶を継承する 秋田県被団協を支えてきた事務局長の思い
ABS秋田放送
日本時間の10日夜、日本原水爆被害者団体協議会・日本被団協に、ノーベル平和賞が授与されます。 日本被団協に加盟する団体は、秋田にもあります。 秋田県原爆被害者団体協議会、秋田県被団協です。 原爆で命を落とした人を追悼する慰霊祭を開くなどして、戦争の記憶を継承する活動を続けてきました。 ただ、会員の平均年齢が87歳を超えるなど、高齢化が進んでいて、今年3月には会長が97歳で亡くなりました。 課題がありながらも歩み続ける秋田県被団協を長く支えてきた、事務局長を取材しました。 ノーベル平和賞に選ばれた、日本原水爆被害者団体協議会・日本被団協。 秋田県被団協の事務局長を60年あまり務めている、能代市の佐藤力美さん86歳のもとにも、すぐに吉報が届きました。 佐藤力美さん 「びっくりしました。それで、もうここ10年ね、ノーベル賞については話題にならなかったんです」 「もっと早くもらってければ、もうね、ノーベル賞。何人ももう亡くなっていますからね。ノーベル賞をもらえることを期待して活躍。活動した人もたくさんおったので、遅かったなという感じもしましたけども、もらったことは非常にうれしいと思っています」 30年あまり前に77歳で亡くなった佐藤さんの父親の力さんも、秋田県被団協の一員でした。 通信兵として派遣された広島で、爆心地から約1.8キロの兵舎で被爆した、力さん。 その後、遺体の収容などにあたりました。 「油をかけ火をつける。はじめてみる屍。次第に涙が出てどうしようもない」 「こんなになっても、また戦争するのか」 一時は死亡したと考えられていた力さんがふるさと能代に帰ることができたのは、1か月ほど後のことでした。 佐藤力美 事務局長 「生きて来たっていうことで、まずはその事実だけがね、喜びでした。はい」 記者 「帰って来てからどんな話したんだすか」 佐藤 事務局長 「えーとね、出て来てからね。広島で原爆があったということをね。新しい兵器があって全滅したっていう話があったから、その話の内容と、すぐ帰って来なかったのは急性原爆症になって、当時は赤痢だと思ったんだね、そして、広島の江波分院さ入院してあったという話していて」 父親の被爆者健康手帳の申請の手続きを手伝ったことや、秋田県被団協の初代会長から誘われたことをきっかけに、佐藤さんは1964年、26歳のときに事務局長になりました。 被爆した人たちとともに、継承してきた、戦争の記憶。 佐藤力美 事務局長 「生きているっていうことが、被爆の証人にもなるし、被爆のね、実相を無言で伝えるということにもなりますので」 ただ、秋田県被団協は、会員の高齢化という大きな課題に直面しています。 最も多い時は約90人いた会員は、今年3月末時点で13人まで減り、平均年齢は87歳を超えています。 日本被団協の加盟団体は、かつて、すべての都道府県にありましたが、会員の死亡などに伴い、11の県で解散または休止しました。 佐藤 事務局長 「これがね、広島さ行った墓参の時の写真です」 佐藤さんとともに、長きにわたって秋田県被団協を支えてきた人がいます。 横手市山内土渕で生まれ育ち、今年3月1日に97歳で亡くなった、照井喜代治さんです。 照井さんも、佐藤さんの父、力さんと同じく、陸軍の通信兵として広島に派遣され、18歳の時に兵舎で被爆しました。 照井喜代治さん(2001年) 「それで外に出たところ、なんだか薄暗いような気がして、そしてまちの人方もう大騒ぎで、兵隊さん助けてけれ助けてけれってもう、見る様もないような格好で来るわけなんですよ」 「人間の皮膚ですな。皮が下がっているんですよ。焼けただれて」 戦後、ふるさとに戻った照井さん。 原爆投下のあと、遺体の処理などをした記憶は、一生頭から離れないと話していました。 照井さん 「遺体をこう持つと、手からみんなズルズルと滑るんですよ。そしてそういうのを今度は2人くらいで、トラックにあげたんだけど、そのにおいがもう異様なにおいがするんですよ。ウジもわいたったんですよ」 今年3月まで、10年近く、秋田県被団協の会長を務めた照井さん。 照井さん(2013年) 「核兵器も戦争もない平和な世界を目指して、再び、被爆者をつくるな、原爆被害に国家補償をと訴え、運動を続けています」 照井さん(2018年) 「どんなに苦しくても、生きている限り、わたくしたちの願いである、あの悪魔の兵器が無くなるまで、全国の被爆者とともに、国の内外で」 照井さん(2019年) 「生き残ったわたくしたちが1人になっても、命の限り、県民とともに核兵器廃絶を叫び続ける決意です」 新型コロナウイルスの影響で、慰霊祭が中止になった4年前。 照井さんは、94歳で迎えた8月6日も、あの日の記憶を鮮明に語りました。 照井さん(2020年) 「みんな焼けて熱いからよ。川さ入って木流しみたいに川の中人が流れていた。それをよ、我々丈夫なやつがよ、健康なやつがよ、引っ張り出してよ、起こしてあげてな。だからいまだに何万人と行方不明分からない人がいるんだ。どこの誰か分からない何万人って死んだからな」 二度とあのようなことが起きないために。 つらい記憶を呼び覚まして、照井さんは言葉を紡ぎ続けました。 その後の慰霊祭への出席はかなわなかった照井さん。 最後まで核兵器の廃絶を訴え続けて、生涯を終えました。 およそ20年前に撮影した照井さんのメッセージを、佐藤さんに見てもらいました。 照井さん(2001年) 「私方、生き証人ですから、後世に伝える責任があります。もし、聞きたい、話を聞きたいという人がいましたら、いつでも私のところに連絡してください。万障繰り合わせて出席します。よろしくお願いします」 いまはもう聞くことがかなわなくなった、照井さんの言葉。 佐藤力美さん 「核兵器のね、悲惨さというのは、許すことができないなということを常々言って、そして、あの秋田弁で堂々とね」 照井さんの遺志も継いで活動を続ける、秋田県被団協。 佐藤さん 「先輩方がね、運動してきた歴史がある、団体であるし、日本被団協だっていうことで、地方においてもですね、被爆者組織、被団協の一員、組織だっていうことで、非常に運動がしやすいということで、どんなことがあってもね、日本被団協は解散するなと」 最後の1人になったとしても、秋田県被団協はなくさないと決意している佐藤さん。 ノーベル平和賞を糧に、戦争反対と核兵器の廃絶を、これからも訴え続けます。