観光を「真の平和産業」にする唯一の方法! それは、その意味を積極的に語ることだ
受動から能動としての観光
観光は平和産業である。 この言葉には、受動的な見方と能動的な見方、ふたつの面がある。湾岸戦争や同時多発テロなど、安全面の懸念から海外旅行自粛が叫ばれた時期や、リーマンショックで世界経済が危機におちいり、観光が影響を受けた時期が過去にあった。近年では、新型コロナの感染対策で人の移動が制限され、全世界的に観光業界が大きなダメージを受けたことは記憶にも新しい。 【画像】えっ…! これが60年前の「海老名SA」です(計15枚) 現在も、内戦が続くアフリカの国々、ウクライナ情勢、さらにパレスチナ紛争と、戦争による危険地域も多く、世界のあちこちで観光旅行などできる状況ではない人々が多く存在する。まさに、平和でないと観光などできやしない。観光が、受動的な意味で平和産業だと語られる側面だ。 観光は、社会情勢に左右されやすい点で受け身にとられる。しかしそれで済ませては、常に平和を切望して生きるわれわれ人間にとって発展性がない。観光は、 「能動的な意味合いで語られてこそ」 平和産業といえるはずだ。 「平和」とは一体何か。辞書を参照すると、 1.やすらかにやわらぐこと。おだやかで変りのないこと 2.戦争がなくて世が安穏であること とある。「やすらかにやわらぎ、おだやかで変りのない」生活や「戦争がなく、安泰な」世界を能動的に産み出す力が、果たして観光にあるだろうか。 ということで本稿では、観光が能動的に平和ヘ貢献しうる側面に、考えを巡らせてみようと思う。
異文化体験による多様性の受け入れ
観光には、戦争をたちまち消し去るような、そんな直接的な力があるとは正直思えない。政治的利害がからむ国家レベルの紛争をしずめたり、宗教問題や思想に起因する民族間のあつれきを動かしたりできるとはとうてい思えない。しかし、 「争わないこと」 に寄与することはできるはずだ。 「争わないこと」への一歩は相手を受け入れること。つまり、自分とは違った文化や慣習の中で生まれ育った人を理解し、その多様性を受け入れることだ。 インターネットの普及により、受け取れる異文化情報は、ひとむかし前と比べ、ケタ違いの量と速さで手に入る。SNSの利用も増え、翻訳人工知能(AI)も身近となり、国境や人種を越えたコミュニケーションでもおどろくほど簡単だ。 外国との距離は、バーチャル(疑似的)ではあっても、急速に縮まっている。それにより、多種多様の考え方や価値観を情報として身近に感じることができるようになり、異文化への理解が深まっているといえる。しかし、それでもやはり 「百聞は一見にしかず」 だ。何度話に聞いても、実際に目で見て知りえる情報量にはかなわない。そして、インターネット時代となった現代では、 「百見すらも一体験にしかず」 である。何度も画像や映像を見たところで、実際にその場を旅して体験するインパクトにはとうてい及ばない。 旅行は体感のチャンス、何にもまさる情報のみなもとだ。現地に生活する人と交流することで、その文化を体感できる。生活習慣や食事などを体験することで、そこに暮らす人々の考え方の根幹を感じとることができるのだ。 そうやって身をもって体験することで理解は深まり、その文化に対する敬意、その中で生きる人々を尊重することへとつながる。それが「争わないこと」の一助となるのであれば、観光は、能動的な平和産業としてその存在価値をもつ。