社会通念の意義と限界 公共広告機構のCMから考える 施光恒の一筆両断
社会通念の役割とは何だろうか。子供にどのように教えるべきか。このところよく考える。きっかけは、公共広告機構(AC)の広告「聞こえてくる声」である。(ぜひネット検索してごらんください)。 テレビCM、ラジオCM、新聞広告とさまざまな形態があるが、ここではテレビCMを取り上げよう。次のような場面を描いた漫画的な絵と吹き出しが映し出される。第一の場面では、ベビー服が何枚かかかった物干し台の絵が最初に登場する。そして、赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。その後、こちらは無音だが、「オギャア、オギャア」、「はいはーい、今行くね!」などの吹き出しが画面に現れる。第二の場面では、映し出されるのは高層ビルの外形だ。そこに「わが社の経営方針を発表します」という吹き出しが重なる。他にも、クマのぬいぐるみがたくさん並んだ玩具店の商品棚が映り、そこに「ピンクのがいい!」という吹き出しが表示される場面もある。 このような場面が表示された後で、「聞こえてきたのは、男性の声ですか? 女性の声ですか? 無意識の偏見に気づくことからはじめませんか」というナレーションが入る。 このCMは、公共広告機構のサイトによれば「ジェンダー平等について考えるきっかけ」として企画された。3つめの場面であれば、ピンクを好むのは女児が多いと考え、女の子の声で「ピンクのがいい!」と脳内で再生する人が多いだろう。こうした予断(先入見)に対し、必ずしもそうではないと気付かせるところに、このCMの意図がある。 意欲的なCMだが、懸念も感じる。このCMは「赤ちゃんをあやすのは母親の場合が多い」「大企業の経営陣には男性が多い」「ピンクのぬいぐるみを好むのは女児が多い」といった予断を持つことそれ自体が悪いと言っていると受け取られかねないことだ。 問題とすべきは、予断の形成それ自体ではない。誤りであるという証拠(反証事例)が現れた場合に、予断を柔軟に修正できるか否かである。実際、偏見の古典的研究では、偏見は次のように規定される。「人が新しい証拠に基づいて自分の誤った判断を修正することができるなら、その人は偏見がかってはいない。予断は、新しい知識が現れても、それが改められない場合にのみ偏見となる」(オルポート『偏見の心理』培風館、8ページ)。 この点は、社会通念の意義や限界を考えるうえで非常に重要だ。予断は社会通念に影響されることが多いからである。上記の事例で男性の声が聞こえてくるか、女性の声が聞こえてくるかという予断の形成自体が偏見であり、望ましくないのであれば、社会通念自体も有害ないし無意味なものとなってしまう。