社会通念の意義と限界 公共広告機構のCMから考える 施光恒の一筆両断
だが、社会通念にはさまざまな意義もある。社会通念とは、過去の無数の人々の半ば無意識の行為の蓄積の結果として生じてきたいわば一種の仮説である。「赤ん坊とはこういうものだ」「父親とはこうあるべきだ」といった仮説である。社会通念は仮説であるから、生きていくうえでさまざまな手がかりを与える。子供が大人になる際、さまざまな社会通念を手がかりとし、時にはそれらに激しく反発し、自分のアイデンティティーを見いだしていくであろう。社会通念がなければ多くの場合、途方に暮れてしまう。
最近、小中学校の先生方と話すと、学校で「男らしさ」「女らしさ」などの社会通念を語ることが非常に難しいという。社会通念は、あくまでも仮説としてだが、子供の発達段階に応じて家庭や学校で教えていくべきだと私は思う。社会通念そのものを否定してしまえば、子供たちは、どのように自分の性と向き合っていいかなどの大事な手がかりを見失い、当惑する恐れがある。
もちろん、社会通念は時代や場所によって変わるものであるし、その通念が当てはまらない場合も多々ある。社会通念に苦しめられてきた人々もたくさんいる。このことも決して忘れてはならない。
社会通念の意義と限界の両面を、子供の発達段階に応じて、注意深く教えていくべきではないだろうか。
施光恒(せ・てるひさ) 昭和46年、福岡市生まれ、福岡県立修猷館高校、慶應義塾大法学部卒。英シェフィールド大修士課程修了。慶應義塾大大学院博士課程修了。法学博士。現在は九州大大学院比較社会文化研究院教授。専攻は政治哲学、政治理論。著書に『英語化は愚民化』(集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など。「正論」執筆メンバー。