出来が悪いと思いつつ妙に面白い。完成度だけが尺度ではない(レビュー)
『すばる』6月号の巻頭は、二瓶哲也「ふたご理論」。表紙を飾る氏名も一番大きく期待のほどがうかがえる。 脳梗塞で倒れ半身不随になった常盤満策54歳と、彼の介護をする湯本繭美23歳、二人の視点が入れ替わりながら物語は進む。 満策は売れない俳優をしていた。子供ができ結婚しても役者への未練を断てずにいたが、子を交通事故で亡くし離婚して足を洗った。 繭美は、母の情緒不安定に悩まされてきた。母が小学生の頃、実家の酪農場が全焼し一家はどん底に突き落とされた。そのトラウマを50代半ばを過ぎてもまだ引きずっていた。母の不安定さからか両親は離婚し、繭美は母子家庭で貧困に苦しみながら育った。 全快はないと悟り死に際を想像し始めた満策は、「今、何をすべきなのかを逆算して考え」て、繭美に自分を主人公にした映画を撮ってほしいと頼む。繭美は次第に、満策の人生を映像に刻むことの意義を見出すようになるのだが、奇妙にも、満策の過去と、繭美一族の過去が呼応し始める。 作者が満策に「出来過ぎた運命のいたずらは、小説や映画の世界に、腐るほど溢れかえっている」と言わせているように、偶然に頼り過ぎていて出来の良い作品とは言えない。何よりタイトルにもなっている、鍵であるはずの「ふたご理論」がほぼ機能していない。 推測だが、書いているうちに話が勝手に動き、作者自身手に負えなくなったのではないか。だからか、出来が悪いと思いつつ、妙に面白く読ませられてしまう。キャリア10年を超える作家が無様さを自覚しながら「これでよい」と手放したような達観が感じられる。完成度だけが小説の価値を計る尺度ではないのだ。 尾崎世界観「転の声」(文學界6月号)も完成度はそう高くない。だが、忌み嫌われている転売ヤーが、音楽産業構造の変化により一転、支配的地位に立つ憧れのセレブになるという寓話は、ミュージシャンである作者が身近なネタを捻った小咄のようでいて、現代社会に広く潜在する脆さを突いている。それはあるいは作者の意図ではないかもしれないが、優れた寓話は解釈を誘うものである。 [レビュアー]栗原裕一郎(文芸評論家) 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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