光源氏のモデル、尼崎にゆかり 平安時代の左大臣・源融 琴浦神社に邸宅描いた絵図 海水運び塩作りか
NHKで放映中の大河ドラマ「光る君へ」。主人公の紫式部が執筆した「源氏物語」に登場する光源氏には、モデルとなった貴族がいたとされる。天皇の息子として栄達を重ねた源融(みなもとのとおる)だ。平安京に豪華な邸宅を構え、宇治の別荘は後に平等院となった。和歌にも優れ、百人一首にも選ばれている。まさに光源氏のような雅な人物だが、兵庫県尼崎市にゆかりがあることはあまり知られていない。(池田大介) 【写真】海水を汲んで運ぶ様子が描かれた部分 「ボートレース尼崎」から北に徒歩数分の琴浦神社(同市琴浦町)。地名の由来は、海風に吹かれた松の葉がふれ合う音が琴の音色のようだったとも、他の浜辺とは異なるほど景色が秀でていたからとも伝わる。この神社の祭神としてまつられているのが源融。しかしこの地を訪れたという記録はない。代わりにある伝承が地元では語り継がれている。 さかのぼること1100年ほど前。風流好みの源融は、製塩で知られる陸奥国塩釜(現在の宮城県塩釜市)の風景を邸宅「六条河原院」の庭園に再現しようと試みた。その際、はるばる琴浦から海水を運ばせて、庭で塩を作らせたという。 そのためか、かつて神社の前の田んぼを「塩釜」と呼び、社殿には源融の直筆の神額が掲げられていた、と伝わっている。市内の潮江という地名も、この伝承が基になったという説もあり、何らかのつながりはありそうだ。 尼崎市立歴史博物館の学芸員楞野(かどの)一裕さん(64)によると、当時、京都から海へ出るには淀川から神崎川を下って尼崎に出る水路が一番近かったという。「実際に海水を運んだかは不明だが、都から一番近く貴族の往来もあった地域だからこそこの伝承が生まれたのかもしれない」 左大臣にまで上り詰めて豪勢な生活を送った源融だが、藤原氏の権勢下で念願の皇位復帰はかなわなかった。光源氏も天皇を親に持ちながら皇位には就けず、「六条院」で女性たちと逢瀬(おうせ)を重ねた。史実は不明だが、境遇の似た源融をモデルに紫式部は筆を進めたのかもしれない。 現在、神社には縦約100センチ、横約170センチの大きな絵図が所蔵されている。明治時代に氏子が奉納したもので、琴浦から海水を運び、京都の邸宅で塩を焼かせる風景が描かれている。宮司の森本政典さん(66)=尼崎市=は「『光る君へ』をきっかけに境内に足を運び、地域の歴史を知ってほしい」と話した。 琴浦神社(大島神社)TEL06・6417・1030