太平洋戦争開戦から82年 幻の「本土決戦」に向けて…山国・信州に残る海軍の地下壕 「中枢」予定地で新たな手がかり
12月8日は今から82年前の1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まった日です。戦いの「始まり」の日を前にした7日、戦いの「終わり」に深く関わる調査結果を長野市の住民グループ「昭和の安茂里を語り継ぐ会」が発表しました。 【動画で見る】太平洋戦争開戦から82年 幻の「本土決戦」に向けて…山国・信州に残る海軍の地下壕 「中枢」予定地で新たな手がかり
長野市安茂里小市にある「大本営海軍部壕」。 1945(昭和20)年に旧海軍が着工したとみられ100メートルほど掘ったところで終戦を迎えました。
陸軍中心に同市松代地区で掘られた総延長10キロの巨大地下壕とともに、善光寺平に政府機関を移しての本土決戦構想の一翼を担っていたとみられています。 壕の研究や保存に取り組む「昭和の安茂里を語り継ぐ会」では、中断された場所から更に掘り進めた場合、250メートルほどで北東方向の犀沢(さいざわ)の斜面に出たと見ています。 しかし、規模が小さいことなどから、会では現存する壕は通信部隊などが入るもので、軍中枢は別の大規模な壕に入る計画だったのではないかみて県外の専門家や戦争遺跡の保存に取り組む団体に協力を仰いで周辺を調べて来ました。
手がかりの一つが、海軍の設営部隊の隊長が1980年代に安茂里の地下壕について書き残した手紙。 そこには「(場所は)小市部落の裏山の白土地帯を予定」と書かれています。
その「白土地帯(はくどちたい)」とはー。 壕の出入り口になったと想定される犀沢の斜面から300メートルほど坂を登ると、周りを白い崖に囲まれた小広い場所に出ます。 白い土は凝灰岩で、江戸から昭和にかけ陶器の材料や磨き粉などとして採取されていたということです。
「昭和の安茂里を語り継ぐ会」土屋光男事務局長: 「(設営隊長の記した)白土地帯と呼べる場所はここしかない。」
作業用の宿舎などを置ける平らな場所があり、山中の入り組んだ地形で上空から発見されにくいことなどから、語り継ぐ会では本体工事の予定地だったのではないかとみています。
「昭和の安茂里を語り継ぐ会」・土屋光男事務局長: 「山が迫っていて攻撃しにくく見つかりにくい。壕が爆撃に耐えるために必要な地上から30メートルの厚さの土も確保でき非常に良い場所。推定ではあるが本体工事の場所は95パーセントここではないかと思う」 「終戦直後、宿舎になっていた自宅の庭で将校が書類を焼いているのを見た」という証言も残されていて、設計図など地下壕の工事に関連する文書は終戦直後にほとんどが焼却処分されたと見られています。 それでも、「戦後、縦横2メートル程の小さな穴を見た」と話す古老もいるとのことで、「昭和の安茂里を語り継ぐ会」では地域の隠れた歴史を解明するため今後も調査を続けることにしています。