1988年4月のある土曜日、バス停で起きた奇跡の瞬間…歴史を変えたひとりの男が閃いた「世界の真理」
生物的存在で、社会的存在
私たちは生まれてから幼少期を経て大人になり、やがて老境にさしかかります。これは私たちの生物的存在の側面です。同時に、私たちは成長する過程で母国語を身につけ、学校に入り、社会人となり、父や母になります。これは社会的存在の側面です。このように、人間は誰でも生物的存在であり、社会的存在でもあるのです。私たちが持つこの「2つの側面」は、決して切り離すことはできないのです。 100歳を越えて長生きした菌類学者だったインゴルドの父は晩年、生まれた時は四本の足で這いまわり、やがて二足で歩くようになり、足腰が弱くなって杖をついて三本足になり、最後は、歩行器に頼って六本足の昆虫のようになったと自分のことを語ったと言います。インゴルドによれば、そのような運動能力の変化は、父の身体に刻み付けられていたわけではなく、日々の行動やトレーニングなどをつうじて、年齢とともに生じてきたものなのです。個体発生と身体性、人体の発達と技能の習得は、生体の成長と文化的な条件づけという2つのものではなく、ひとつのものなのです。私たちは生物的存在でもあり、同時に、社会的存在でもあるのです。 人類学に多大な影響をおよぼし続けているティム・インゴルドは、人間とは有機体(生命を持っている個体。つまり生物)であり、それと同時に社会的な存在でもあるのだと考えました。助けになったのは、ジェームズ・ギブソンの生態心理学でした。インゴルドは特に1979年に出版された『生態学的視覚論』に影響を受けたといいます。 ギブソン以前の心理学では、人は頭の中で感覚的に世界を思い描くことによって、周囲の環境を知覚しているのだと考えられていました。人は光や音、皮膚に感じる圧力をキャッチして、それらを頭の中で知覚として組み立て、それに続く行動の指針にしているという考えです。その考えによれば、心とはデジタル・コンピュータに似たデータ処理装置になるでしょう。ギブソン以前の心理学者は一般に、そのデータ処理装置がどのように働いているのかを解明しようとしたのです。 しかしギブソンのアプローチは、それとは大きく異なっていました。ギブソンにとって、感覚は知覚の原因ではなかったのです。 たしかに、人は氷に触れたら冷たい、熱湯に触れたら熱いと感じます。つまり、感覚(この場合、触覚)が知覚の原因になっていると言えます。ですが一方で、触らなくても氷が冷たい、熱湯が熱いということを、私たちはすでに経験から知っています。そうすると、感覚は知覚の原因になっているとは言えなくなります。触れたり、見たりした時に感じるものと、周囲の環境を知覚することは、はっきりと切り分けられないのです。