もっと知りたい北方領土(5)「今でも涙が…」過酷極めた樺太経由の引き揚げ
終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、まだ平和条約も、北方4島の返還も実現していません。そうした中、9月に行われた日露首脳会談で、12月にプーチン大統領の来日が決まり、領土交渉の進展が期待されています。 あらためて、北方領土とはどんな場所なのか、どのような自然や産業があったのか。どのような生活を送っていたのか。そして、4島をめぐる今の人々の思いなどを、紹介していきます。 第5回は、元島民が「最もつらい思い出」と話す樺太(サハリン)経由の日本引き揚げです。
「気付いたときは後の祭り」 荷物扱いで詰め込まれたソ連貨物船の針路
1947(昭和22)年秋。終戦から2年あまり、ソ連兵やその家族らと色丹島斜古丹で混住生活を強いられていた得能宏さん(82)=根室市光洋町、千島歯舞居住者諸島連盟(千島連盟)援護問題等専門委員=たち島民は、突然「日本に帰らせるから、船に乗る準備をするように」という命令で島を追われました。 準備時間もあまりなく、身の回りのものだけを持って乗り込んだ艀(はしけ)は、少し離れたところに用意されていた1万トンくらいのソ連製大型貨物船へ横付けされました。すると、船から、貨物運搬用の畚(もっこ)が降ろされました。その中に、女性も子供も荷物もまとめて詰め込まれ、網の周りに男性がぶらさがるような形で、ウインチで高々と10数メートル吊り上げられました。そして、あたかもすべてが貨物のように扱われ、甲板へと放り出されたのでした。 貨物船は、4島を回り、船倉に入りきれなかった人は甲板で過ごしました。 「こんな大きな船は根室には入らないから、釧路に行くのかな」。 最初は、大人たちがそんな話を交わしていたといいます。しかし船は、国後水道を通り、オホーツク海に出たことに気づきます。 「これは日本に行かない、と大騒ぎになったときには、もう後の祭りだった」。