もっと知りたい北方領土(5)「今でも涙が…」過酷極めた樺太経由の引き揚げ
「きっと来年になればソ連軍はいなくなる」 願いかなわなかった両親
終戦時、北方4島には約1万7千人が暮らしていました。半数が自力で脱出、残った半数が1947、1948年にかけて強制退去させられ、樺太の抑留生活後、函館港に送還されました。しかし、どのくらいの人が移送される貨物船内や真岡の収容所で命を落としたのかは明らかになっていません。 歯舞群島のひとつ、多楽島で暮らしていた河田弘登志さん(82)=千島連盟副理事長、根室市宝林町=は、終戦後、占拠したソ連兵の配慮で、学校へ行くために、弟と2人だけで、根室からの迎えに来た親戚と一緒に島を離れました。しかし、それっきり、多楽島に住む家族とは音信不通になってしまいました。寂しくなると浜に行って、家族が住む多楽島の方を見つめる日々が2年続きました。 そして1947(昭和22)年冬、なんの連絡もなく、根室の河田さんたちの前に現れた母親らの姿に言葉を失いました。「着の身着のまま、裸一貫というのはまさにあのことを言うんでしょうね」。到着した函館港で全身シラミ除去のDDTを真っ白になるまで散布された河田さんの家族は、「どろどろの姿」で、冬にもかかわらず、外で全身水洗いしないと家には入れない状態だったといいます。 家族の話では、その3カ月前の9月ごろ、島に残っていた馬を取りに来たソ連船に、わずか1、2時間で準備し、多楽島を退去するように命令されました。移送の貨物船では、船倉にもう入ることが出来ず、甲板で過ごすことになり、見上げていた夜空の星の位置で「根室に行くのではない」と気づいたといいます。それから3カ月間、真岡の収容所では、与えられた畳2枚に家族6人で過ごし、横になって眠ることも出来ませんでした。 「きっと来年になれば、ソ連軍がいなくなる」。 それから河田さんの一家は歯舞群島の近くの根室で、毎日島を見つめながら、暮らしました。1994(平成6)年に父親が83歳で、2001(平成13)年に母親も88歳で永眠しました。そして終戦から71年たった今も、島に戻るという願いは、まだかなっていません。