東直子の小説を娘の東かほり監督が映画化した「とりつくしま」、予告編と小泉今日子らのコメント公開
死んでしまったあと、モノになって大切な人の近くにいられるとしたら──。東直子の同名小説を、「ほとぼりメルトサウンズ」で知られる娘の東かほり監督が映画化した「とりつくしま」が、9月6日(金)より新宿武蔵野館ほか全国で順次公開される。予告編ならびに監督、原作者、キャストの小泉今日子、歌人の俵万智のコメントが到着した。 「とりつくしま」予告編 人生を終えた人々に、“とりつくしま係”が「この世に未練はありませんか。あるなら、なにかモノになって戻ることができますよ」と告げる。妻は夫のマグカップに、男の子はジャングルジムに、祖母は孫のカメラに、母はピッチャーである息子のロージンに──。
上田慎一郎監督「カメラを止めるな!」、今泉力哉監督「退屈な日々にさようならを」、外山文治監督「茶飲友達」などを生んだENBUゼミナール〈シネマプロジェクト〉の第11弾となる本作。原作の11篇より4篇を抽出し、オリジナルストーリーを加えて映画化した。ワークショップ参加者がキャストを務め、“とりつくしま係”を小泉今日子が演じている。5月にはニッポン・コネクション(ドイツ)のNIPPON VISIONS部門で上映された。
〈コメント〉
■東かほり(監督) いのちは本当に突然、うそみたいに消えてしまうことがあります。 洗濯物をたたんだり、顔を洗ったり、ドラッグストアで買い物したりしている時にふと、あぁ、もうあの人は日常に存在しないんだと実感したり。思い出す瞬間って、何気なくて残酷です。 原作の『とりつくしま』を読んだとき、もしかしたらモノになってそばにいるのかもしれないという救いがありました。 10代の私は、母に何度もひどい言葉をぶつけていました。 その頃に母が書いていた物語に、今は救われているので、母親は偉大です。 とりつく“モノ”が主役のお話しを映画化するにあたり、モノ目線を考えながら横になって動かずじっとしていたら、隣の部屋で父がラジオ体操をしていて、ドアの隙間から飛び跳ねる瞬間だけ手が見えたり、頭がみえたり、絶妙に表情が見えなくてもどかしかったんです。でもなんだか見えないからこそ想像して微笑ましくもありました。きっとこういうことなんだろうなと思いながら、脚本や撮り方に活かしました。 私なりのモノの眼差しや、日常のおかしみも込めています。 本公開ができること、心からうれしいです。 大切な人や、見守ってくれているかもしれないモノたちを想いながら観ていただけたらしあわせです。 たくさんの方に届きますように。 ■東直子(原作) 『とりつくしま』は、魂がとりついた「モノ」が主人公だけに、映像化は難しいだろうなと思っていました。でも、役者さんの繊細な表情や声に寄り添うやさしい映像に、自分でも驚くくらい自然に入り込んでいました。亡くなった人の心を想像しながら書いていた時のことをずいぶん思い出しました。ついでに、かほりが生まれてから今日までのことも、ずいぶん思い出しました。 映像を通して生と死を疑似体験することで、生きることにも、死ぬことにも、少しだけ心を楽にしてくれる、そんな映画になったのではないかと思います。 私はいつかこの映画を「とりつくしま」にして、未来の観客の魂に寄り添ってみたいです。 ■小泉今日子(“とりつくしま係”役) 父親の葬儀が終わり、娘である私たち三姉妹が火葬場へ向かう黒塗りの車に乗り込むと、なぜか私の目の前に西陽を浴びて金色に光る小さな蜘蛛が糸を伝って降りてきた。幻覚?と思い,姉たちの方を見ると二人にも確かにその蜘蛛が見えているようだ。「お父さんだね」と、長姉が小さな声で呟き、妹たちは妙に納得したのだった。それから私がピンチに陥ると必ず蜘蛛が現れる。現れるだけで何をしてくれるわけでもないのだが、30年も前に死んだ父親と未だに関わっている気分になる。たくさんの時間を費やして人は人と関わる。だからさようならもゆっくりと味わいたい。『とりつくしま』は、そういうことをとても丁寧に素敵に描かれている映画です。 ■俵万智(歌人) 本歌取りだ、と思った。 元の歌の一部を受け継ぎながら、さらに展開を加える和歌の技法である。 「とりつくしま」という原作の卓抜なアイデアを活用しつつ、映像には新しいリアルと味わいが息づいていた。 死を扱いながらも、温かくユーモアのある世界。 とりつく側の視点をこんなふうに描くのかという驚きとともに、残された側にも踏みこんでいるところが魅力だった。 見送ったばかりの父を思うとき、笑顔になれたことにも感謝している。 たぶん私ではなく、母の何かにとりついていることだろう。