雲仙・普賢岳の大火砕流から33年 脳裏に焼き付いた仲間の死を機に教職へ 被災地の校長として子供に伝えたい思い
43人が犠牲になった雲仙・普賢岳の大火砕流惨事から2024年6月3日で33年という月日が経った。大火砕流を機に教職に就いた男性がいる。島原第五小学校の校長となった男性には、ふるさとで学ぶ子供たちに伝えたい思いがあった。 【画像を見る】こんな大災害になるとは思わなかった…(1991年6月)
あの日から33年
噴火災害の被災者が暮らす島原市の団地には献花台が設けられ、市民などが手を合わせた。 33年前の1991年6月3日に発生した大火砕流は、地元の消防団員や報道関係者など43人の命を奪った。島原市の仁田団地には犠牲者の名前が刻まれた追悼碑の前に献花台が設けられ、島原市の古川隆三郎市長や警察や県の職員など約50人が花を手向け静かに手を合わせた。 島原市の古川隆三郎市長は、「再び惨事を繰り返さないこと。日本一の自主防災組織をつくっていくことが私たちが今、課された使命だと感じている」と述べた。 地元の高校生も訪れ、追悼の思いを込めて折った千羽鶴を捧げた。 島原中央高校3年 本田莉花さんは、「地元で災害が起きたことはあんまり実感がわかないが聞いた話を、経験を自分の言葉で次の世代に伝えていけたらいい」と語った。 島原市では大火砕流が発生した午後4時8分にサイレンが鳴らされ、深い祈りに包まれた。
まさかこんな大きな災害になるとは
33年前の大火砕流を機に教職に就いた男性がいる。 島原市立第五小学校 喜多三郎校長:映画で出てくるパニックってこういうことかな、と 33年前の大火砕流をこう振り返ったのは島原市立第五小学校の喜多三郎校長だ。当時は葉タバコ農家の跡継ぎとして栽培を手伝いながら市内のガソリンスタンドで働いていた。 大火砕流が起きる2週間ほど前、5月下旬は雨が降り続いていた。普賢岳のふもとを流れる水無川で土石流が発生し、地元では厳重な警戒が続いていた。小規模な火砕流も度々発生し、一部の地域に避難勧告が出ていた。 喜多さんは「まさかこんな大きな災害になるとは当時は誰も思っていないし、火砕流ってきれいだな。と思っていた。大火砕流が発生した日は、車が通らず渋滞した。夜になって灰の雨が降ったり雷みたいにバリバリ音が鳴った」と語る。 見たことのない光景に、ただ事ではないと感じながらも当時は何が起こったのか、すぐには分からなかったという。そして火砕流のすさまじさを目の当たりにした。 島原市立第五小学校 喜多三郎校長:消防団の先輩(2人)を工事の人がスタンドまで連れてきた。マネキン人形みたいに髪の毛もない、残っていたのは下着のところだけ。真っ黒になった人とよく知っている先輩だけど分からなかった「熱かけん、水をかけて」と言われ水をかけた ――頭から水をかけたものの、このままではいけないーー。 通りかかった市の職員に病院への搬送を依頼した。喜多さんは「地元のために一生懸命警戒をしていた人たちがなぜこんな目に遭わないといけないのか」と強い憤りを覚えたという。 火砕流発生の30分ほど前に、「消防団の陣中見舞いに行く」と山を登った職場の上司・小鉢亮二さんも帰らぬ人となった。喜多さん自身は、母校でもある第五小学校に両親とともに避難した。 喜多さんの家族や実家に被害はなかったが、警戒区域に入った勤務先のガソリンスタンドは休業に。葉タバコは火山灰の影響でとれなくなった。 2年ほど知り合いの会社で働いたが、犠牲になった職場の上司や消防団の同級生や先輩のことが脳裏に焼きついて離れなかったという。 喜多さんは「仲間や先輩が亡くなったり自分に近い人が亡くなって、自分の夢にもう一度挑戦させてくれ、と親に頼んだ。普賢岳は申し訳ないけど転機になったところもある」と振り返った。