大阪大空襲を漫画風画集で再現 ── 元看板職人・戦争伝えるため本職の腕生かし出版
大阪市平野区在住の矢野博さんが、7歳で体験した大阪大空襲の悲惨さを伝える記録画集「あの日、あの時 国民学校一年生の記憶」を、大阪の出版社「新風書房」から刊行した。矢野さんは長らく看板職人として絵筆を執ってきただけに情景描写が臨場感にあふれ、漫画風タッチでだれにも読みやすい。出版を記念して15日まで、原画展が新風書房で開催されている。
疎開先から一時帰郷の際に遭った大空襲
矢野さんは1937年生まれの77歳。1944年、市立浪速津国民学校に入学後、滋賀県へ集団疎開し、お寺で級友たちと共同生活をしていた。翌年の3月、進級準備のため一時的に大阪へ戻ったが家族との再会を喜んだのも束の間、13日深夜から14日未明にかけて大阪大空襲に見舞われた。 矢野家は父母と長兄、次兄と矢野さんの5人家族で、浪速区内の長屋で暮らしていた。空襲時、父親と長兄は徴用で不在だった。 次兄は9歳、矢野さんは7歳。米軍のB29爆撃機の来襲を知らせる空襲警報が鳴り響いた瞬間から、矢野家の親子3人が逃げ惑った一部始終を、矢野さんは読みやすい漫画風タッチで克明に再現している。
頭から水を浴びながら懸命に避難
近くの防空壕に逃げ込んだが、空襲の衝撃音は強まるばかり。班長が外を確認すると、火の手が迫っていることが判明し、一転して「逃げろ」と指令が飛ぶ。しかし、正しい避難路を決める術はない。情報が入らないまま、どの方向へ逃げるかで、生死が分かれた。 焼夷弾が雨のように降り注ぐ。焼夷弾は木造家屋を焼き払うために開発された爆弾で、焼夷弾が爆発すると、周囲一面に炎が舞う。人々は次々と襲ってくる猛火を避けながら、走って逃げるしかなかった。 矢野さんは「細い路地を逃げながらも、火の粉が飛んできて熱い。母は防火用水を見つけると、私たち兄弟に何度も頭から水をかけてくれました」と振り返る。空襲を免れた天王寺区内の伯父宅へようやく辿り着くころには、夜が明けていた。
話すのは苦手、ならば本職の腕で次世代に伝える
この第1次大阪大空襲で4000人が死亡。被災家屋は13万6000戸、被災者は50万人におよんだ。国民学校に通う子どもたちも多数犠牲になった。 主要都市への空襲から原爆投下を経て終戦へ。焦土で迎えた戦後も、暮らしは楽にならない。矢野さんは「駅の構内などで戦災孤児をよく見かけた。生活のために靴を磨く少年たちもいましたが、靴を磨かせる大人たちに怒りを覚えました」と、当時の子どもの視点から戦後を見つめ直す。 漫画家や看板職人として黙々と絵筆を執ってきたので、語り部のように話すのは苦手という矢野さん。本職の画業で次の世代へ戦争の記憶を伝える道を選んだ。戦後70年、大阪大空襲をカラーで描いた画集として、資料的価値も高い。 「地震や台風は天災ですが、戦争は人災。人間の英知で必ず回避できる。私の画集が、平和の大切さを考えるための教材になればうれしい」(矢野さん) 画集は主な書店と新風書房で販売(税別・1800円)。原画展は15日まで、午前10時~午後6時、入場無料。詳しい問い合わせは新風書房(06・6768・4600)まで。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)