「巨人で死ぬ」引退を決意した広岡達朗に昭和の大人物が介在。後悔した“男の引き際”
広岡達朗の引退宣言にあの正力松太郎が……
試合を放棄して家に帰ったものだから、球団内ではトレード話が再燃した。事件が起きた1964年シーズンは三位で終了。10月から秋のオープン戦が始まるが、メンバーに広岡の名前はなかった。その頃、報知新聞に川上監督のインタビュー記事が掲載され、広岡について「トレードに出すかは検討中。近日中に結論を出す」と発言したことで、各誌が一斉に広岡トレードを報じ始める。巨人軍内部で広岡が異端視されているのは周知の事実となった。 報道は過熱するが、広岡のもとに巨人からの連絡は一向に来ない。広岡はどこかで腹を括るしかないと考えていた。広岡の師である思想家の中村天風に、自分の思いの丈をすべて吐き出した。天風は目を瞑りながら微動だにせず話を聞き、何かを悟ったようにカァーッと目を見開き、こう言い放った。 「それなら巨人の広岡として死ね!」 天啓に打たれたようだった。大巨人の看板を支えてきた自負がありながらも、川上との確執による葛藤、懊悩、責苦が入り混じって心身とも疲弊していた広岡は、肩の荷が下りた気がした。背中を押された思いで、現役を退くことを決意する。 早速、巨人軍のオーナーである正力亨に電話をし、邸宅を訪ねた。単刀直入に引退する旨を告げると、亨は陰りのある表情を浮かべた。 「君の気持ちはわかった。しかし私の一存では何も言えない」 亨では捌ききれないということで、亨の父である正力松太郎が裁定する話となった。 正力松太郎といえば〝読売興隆の祖〟であり、日本にプロ野球を作った大人物である。戦後は国務大臣、初代科学技術庁長官などを歴任しただけでなく、テレビの誕生・発展にも貢献し、日本のテレビ界の父とも呼ばれる。もはや歴史上の偉人といっても過言ではない正力松太郎がいちプレーヤーの処遇で動くことなど前例がなく、ありえないことだった。
「辞めることまかりならん」と一喝。広岡達朗がとった行動は?
正力松太郎から至急面談したいと呼び出しがあり、広岡は日本テレビへと駆け付けた。エレベーターを最上階で降りると、会長室まで続いている長い廊下から荘厳な雰囲気が漂ってきた。ホームのはずなのに、なぜか完全アウェーのような物々しい緊迫感が全身を突き刺してくる。 「コンコンッ」と心情を表すような固いノック音を鳴らす。ゆっくり間を置いてから、パンドラの箱に手をかけるかのように重苦しいドアを開ける。〝もわぁ~〟と緊張を孕んだ空気が逃げ場を求めて広岡に覆い被さる感じがした。部屋一面には踏み心地良い絨毯が敷き詰められている。視界に入ったのは、戦後の傑物として日本を急成長させた正力松太郎がゆらゆらと妖気を纏うようにしてソファに座わっている姿だった。 圧倒的存在感の正力松太郎を前にしても、広岡は怯まなかった。プロ野球の父と謳われる大人物の圧に屈せずに自然体のままでいられたのは、「巨人の広岡として死ぬ」という不退転の覚悟を携えていたからだ。人間、斬るか斬られるか─。広岡は深々と頭を下げて挨拶をし、正力の命によりソファへと座る。正力の視線はずっと広岡に注がれていた。互いに向き合うと同時に間髪入れずに正力から問いただされた。 「広岡君、きみは巨人軍の広岡として死にたいのだな」 「はい、そうであります」 「わかった。それほど巨人を愛するのなら、辞めることまかりならん」 正力松太郎は大きな声で発した。その言葉には有無も言わさない重みがあった。広岡は飲み込まれそうになったがぐっと堪え、圧を跳ね返すように返事を一旦保留した。正力松太郎はすぐに「川上を呼べ」と亨に命じたが、秋のオープン戦で九州に遠征しているとのことで、後日あらためて川上監督を交えて会食することになった。