「巨人で死ぬ」引退を決意した広岡達朗に昭和の大人物が介在。後悔した“男の引き際”
現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追い、同じ時代を生きた選手たちの証言や本人談をまとめた総ページ数400の大作『92歳、広岡達朗の正体』が発売直後に重版となるなど注目を集めている。 巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格はどこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体を考えてみたい。 (以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)
川上哲治との確執が表面化した「長嶋ホームスチール事件」
1964年8月6日、蒸し暑い夜空の下、神宮球場の五つの照明灯が青白い光を強烈に放ってグラウンドを照らす。 巨人対国鉄二四回戦。巨人の先発は伊藤芳明、国鉄は〝天皇〟金田正一で始まったナイトゲーム。この日は、長身金田の速いテンポから繰り出すストレートがビュンビュン決まり、さらにブレーキ鋭いドロップがコーナーにギュンギュンと収まり、金田は六回まで巨人打線を完璧に抑えるピッチングを見せた。金田の完封ペースで〇対二とリードされた七回表、巨人はようやく反撃の糸口を手にし、一死三塁のチャンスを迎えた。三塁ランナーは長嶋。バッターは六番広岡。この場面、普通に考えたらヒッティングだ。 カウント2ストライクから三球目だった。金田がセットポジションから足を上げる瞬間、スタンドにいる観客がワーワーと騒ぎ出した。ランナーの長嶋がホームに突進し、足からスライディング。土煙のなかでキャッチャーミットと交錯する。 「アウト!」 球審の手が高らかに上がる。無謀とも言えるホームスチール。余裕のタッチアウトだ。 広岡は逆上した。身体中の血が沸騰し、バッティングどころじゃない。次の球を怒りに任せてフルスイングして空振り三振に倒れ、バットを地面に思い切り叩きつけて悔しがる。 三振で悔しがったのではない。この不可解な仕打ちに対して怒りをぶつけたのだ。2点差での七回一死三塁。外野フライでも1点、あたりが緩い内野ゴロでも1点になるケースで、ホームスチールなどありえない。 「よっぽど俺のバッティングが信用できないのか……」 屈辱に塗れた広岡は首脳陣を見向きもせず、そのままロッカーへと直行し、帰ってしまった。試合放棄だ。 広岡は家路に着く途中もカッカと煮えたぎっていた。監督の川上と長嶋だけがわかるサインを出したとしか思えない。二年前にも同じことがあった。同じ国鉄戦で延長一一回、二対一と 点リードされた場面の二死三塁でのホームスチール敢行。この場面はまだわかる。でも、〇対二で 点差で負けていて、七回一死三塁の場面ではまず考えられない。 「監督と長嶋の間だけのサインなんて、そんなのサインじゃない。怒るのは当たり前。長嶋は好い奴だからサイン通りやっただけ。後でどうなるなんて考えていないから。問題は川上さんよ。俺を嫌っているだけでなく、こんな仕打ちをするのかという怒りと苛立ちで、そのまま家に帰ってやったよ」 この事件により、広岡と長嶋の不仲が始まったと流布されているが、そんなのはデマ。ふたりの関係にはまったく支障がなかった。この事件により巨人内における広岡の立場が危うくなり、巨人史上稀に見る大問題へと発展していくのだった。