由井正雪と丸橋忠弥「慶安クーデター事件」は江戸のかわら版でどう伝えられたのか⁉【大江戸かわら版】
江戸時代には、現在の新聞と同様に世の中の出来事を伝える「かわら版」があった。ニュース報道ともいえるものだが、一般民衆はこのかわら版で、様々な出来事・事件を知った。徳川家康が江戸を開いて以来の「かわら版」的な出来事・事件を取り上げた。第4回は、成立したばかりの江戸幕府を震撼させた慶安クーデター事件(由井正雪の乱)について。 事件は慶安4年(1651)7月に起きた。豊臣家が滅亡した「大坂の陣」からまだ35年しか経っていない。戦国の気質がまだまだ残っている頃である。しかも、この年の4月に3代将軍・家光(いえみつ)が亡くなり、後継者・家綱(いえつな)はまだ11歳の少年であった。将軍交代は、世の中を変えるチャンスでもあった。 宝蔵院流(ほうぞういんりゅう/一玄流とも)十文字槍の名人でありながら、浪人生活を送る丸橋忠弥(まるばしちゅうや)は、そんな戦国気質の残る人物であった。真偽は不明ながら、一説には「長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)」の遺児ともいう。 この時の幕府は、関ヶ原から大坂の陣以来に増えた浪人に対しては冷淡であった。そのために不平不満を口にする浪人は多く、中には集団で徒党を組み、強盗や人殺しをする者もいた。そうした時期に、忠弥は楠木正成(くすのぎまさしげ)の子孫を自称する軍学者・楠木不伝(ふでん)の養子となっていた由井(比)正雪(ゆいしょうせつ)を知った。 江戸の「かわら版」によれば、由井正雪は駿河国由比の紺屋の倅(せがれ)に生まれたという。17歳で江戸に出て、菓子屋などに出入りしながら近年は、楠不伝の娘婿となっていた。この不伝が秘蔵していた、菊水の幡・楠木正成の短刀・楠氏の系図などを、正雪に譲った。正雪はこれをタネにして、名前も与四郎から正雪と改めた。そして、牛込榎町に軍学塾・張孔堂を開いた。正雪は門弟数千人を豪語し、名声が高まるに連れて旗本・大名家などの子弟も弟子になっていった。正雪は、浪人たちに仕官の口を探して与えたりもした。 正雪は、御三家の1つである紀州藩主・頼宣(よりのぶ/家康の10男)とも親交があり、その威光を背景にしていたともされる。事実、正雪は江戸の紀州藩邸で、頼宣と会っている。 正雪を御輿に乗せる浪人たちには、丸橋忠弥の他に、加藤市右衛門、金子半兵衛などがいた。幕府転覆の計画は、こうした様々な背景をもち、正雪一味によって練り上げられた。だが計画は、忠弥の大言壮語癖から破綻する。忠弥は、金貸しの浪人・田代某から謝金をしようと計画をうち明けた。また別に幕府の御弓師藤四郎という者にも借金を申し入れて、計画を口にした。この2人から、幕府・町奉行所は正雪一味のクーデター計画を知った。 計画実行は7月29日。その前の22日に正雪は大くの仲間を引き連れて江戸を発って駿河に向かった。忠弥らは、江戸の各所に火を放ち、擾乱(じょうらん)状態の中で江戸城に入り、将軍の身柄を奪って駿府城に拉致する。正雪らは駿河で合流し、大阪・京都などでも仲間が市中を焼き討ちする、というものであった。実行する浪人は3千人とされる。 しかし、23日に江戸組の忠弥らが町奉行所によって逮捕され、24日には正雪も駿河で自刃(じじん)して一件落着となった。 なお、背後にいたとされる紀州藩主・頼宣は、幕閣の追究をかわして疑念を逃れた。忠弥ら35人は鈴ヶ森刑場で処刑され、正雪の家族など27人も打ち首や磔(はりつけ)になった。「かわら版」は連日、このクーデター未遂事件を書き続け、売りに売れたという。
江宮 隆之