秘仏の扉を開いたのは破天荒すぎる男たちだった!? 新・直木賞作家が近代日本文化の黎明期に迫った感動作!
世界最古の木造建築として、日本初の世界遺産に登録された奈良の「法隆寺」。その建造物や宝物の多くが、国宝や重要文化財に指定されている。なかでも聖徳太子の姿を模して造られたと言われる「救世観音像」は、「夢殿」に収められ、「秘仏の扉を開けば直ちに仏罰が下る」と封じられてきた。 【写真】この記事の写真を見る(5枚) しかし、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治時代、その価値を世界に知らしめるため、フェノロサや岡倉天心らは、秘仏の固く閉ざされてきた厨子を開いた――これに関わった男たちの葛藤と矜持を描いた、感動の歴史小説『 秘仏の扉 』。作者の永井紗耶子さんに話を聞いた。 ◆◆◆
秘仏を未来に繋ぐために「開いて、守る」
永井 私はミッションスクールの出身で、聖書や西洋美術、ミサ曲も含めた西洋音楽については、自然と浴びるように生きてきました。けれど、日本の文化については、歴史小説や古典文学でたくさん読んできましたが、自国の文化なのに、今の自分の日常との繋がりが薄い……。どこかで途切れてしまった感覚がずっとあったんです。その断絶を探っていった時、明治時代の神仏分離と廃仏毀釈が、大きな影を落としているのではないかと思いあたりました。 もともと日本には神様と仏様が同居する独特の「緩さ」があった。しかし、明治維新という強烈な改革の中、いきなり「国家神道」と政府に言われても、ついていけない人たちもたくさんいたはずです。だから、廃仏毀釈の名のもとお寺や仏像を破壊するような、ひどい出来事が何故、どのようにして起こってしまったのかずっと疑問で、それを知りたくもありました。 今回、いろいろと執筆にあたって調べていくと、世界遺産となっている法隆寺が当時どれだけ苦境に立たされていたのかを知り、本当に驚きましたし、国宝になった法隆寺の献納宝物についても、知られざる物語があったことを知りました。あの苦難の時代にあって、1000年以上も前から繋がってきた大切な秘仏を、外に向かって開くことで守り、次の世代へ引き継ごうと必死になった人たちがいた。さらにここから先の文化芸術を育てようとした人たちがいたことを、小説『秘仏の扉』では改めて描いています。