マンガ編集者の原点 Vol.13 梶川恵(シュークリーム編集取締役)
マンガ家が作品を発表するのに、経験豊富なマンガ編集者の存在は重要だ。しかし誰にでも“初めて”がある。ヒット作を輩出してきた優秀な編集者も、成功だけではない経験を経ているはず。名作を生み出す売れっ子編集者が、最初にどんな連載作品を手がけたのか──いわば「担当デビュー作」について当時を振り返りながら語ってもらい、マンガ家と編集者の関係や、編集者が作品に及ぼす影響などに迫る連載シリーズだ。 【ポスト】ヤマシタトモコのエッセイ原稿(他8件) さて、話すとやる気が湧いてくる人、というのがいる。今回登場する梶川恵氏はそんなタイプだ。新卒で角川出版販売に入社、幻冬舎コミックスを経て2007年にシュークリームにアルバイトとして入社し、社員に。フィール・ヤング(祥伝社)で「オハナホロホロ」(鳥野しの)、「アヤメくんののんびり肉食日記」(町麻衣)などを担当しヒット。2010年にBL誌on BLUEを創刊。これまでのBLコミックにはなかったスタイリッシュな装丁と、多種多様なストーリーに彩られた同誌は、BLの画期となった。ほかにも「中学聖日記」(かわかみじゅんこ)、「いいね!光源氏くん」(えすとえむ)、「違国日記」(ヤマシタトモコ)、「海辺のエトランゼ」(紀伊カンナ)、「25時、赤坂で」(夏野寛子)などの担当作も大きな話題を呼んでいる。 いつ会ってもパワフルで、マンガはもちろん、この世の創作物への愛にあふれており、圧倒され、包みこまれる。一言で言うと、陽キャのオタク。自称“おしゃクソ野郎”の梶川氏の雄弁で肉厚なおしゃべりをそのままに、シリーズ最長の大ボリュームでお届け。作家たちからの信頼も厚い梶川氏のパーソナルヒストリーと仕事観に迫る。 取材・文 / 的場容子 ■ 「小遣いは全部マンガに使いました」本屋では親に耳を引っ張られ…… 新潟県出身。マンガの原体験は、親から与えてもらった「ドラえもん」。その後自発的にハマったのは「ときめきトゥナイト」(池野恋)だった。 「小学校低学年からマンガを読んでいるんですが、りぼんを買いだしてから『ときめきトゥナイト』にハマっていきました。私が好きなのは第1部の蘭世編。ヒロインが大好きな真壁くんが、魔界の王子様だとわかり、赤ちゃんの姿に戻ってしまう。蘭世は彼の命を狙う追手から彼を守って逃げなきゃいけない……と、突然ハードな展開になる。そこで蘭世の芯の強さ、好きな男の子を必死に守る姿がすごく心に刺さりました。あのひたむきさは、今に至るまで、そうそういないヒロインだったなと思います」 そこから、梶川氏のマンガ人生が始まった。 「小遣いは全部マンガに使いました。それでも、子供のお金では読みたいマンガを全部買うには到底足りないから、本屋さんに立ち読みに行く嫌な子供で(笑)。時間を忘れて長時間立ち読みをしていたので親に耳を引っ張られて帰る、という。 気になるレーベルは、書店さんであ行からわ行まで読んで、次に買うマンガを決めていく。買ったマンガの続きも気になるから載っている雑誌も読み出す。りぼん、なかよし、ジャンプ、花とゆめ、マーガレット、LaLa、別マがメインで、サンデーも途中から読みだしました」 そうこうしているうちに、マンガや創作物にもう一歩ぐいっと踏み込む──要するに、オタクになるきっかけを与えてくれる雑誌と出会う。 「小学校高学年くらいで、ぱふという雑誌があることに気づいて。ぱふでは全国的に流行っているオタク情報を教えてくれるので、そこでさらにマンガを知るようになりました。オタクゾーンのことを教えてくれた雑誌です」 ぱふは、1974年から2011年まで発行されていたマンガ情報誌で、起源となる雑誌は清彗社から創刊され、その後雑誌名を変遷しながら刊行された。昭和から平成にかけて、マンガやアニメ、活字好きオタクたちのバイブル。作家やメディア化された作品の声優などのインタビューをはじめ、年に1回、読者投票で決める「まんがベストテン」の特集を組むなど、充実した情報で、特に女性オタクから愛されていた。 「紙文化の時代だったので、書店さんは街のいろんなところにあって──悪質なんですけど、立ち読みができる書店はすべて頭に入っていて、歩きだろうと自転車だろうとどこにでも行ったので、本当に健脚だったなと(笑)。『ここはグリーンウッド』(那州雪絵)は、50キロくらい書店を歩き繋いで買った記憶があります」 ■ 「自分はマンガを仕事にしないと危ない」 意外なことに、マンガ編集者になるきっかけになったマンガは「ない」という。 「強いて言えば、『サザエさん』で、編集者のノリスケが小説家の伊佐坂先生に『原稿いかがですか?』って会いに行っているのを見て、『作者に会えるのいいなー』って思っていたくらいで。学生時代はお菓子作りが好きだったので、高校を出たらパティシエの専門学校に行こうと思っていたんですけど、親との話し合いで『進学すれば?』となりまして。進学するならなんになろう?と思ったときに、とにかく好きなことを仕事にしたいと思ったんです。雨が降っても雪が降ってもサボりたくならない仕事に就かないとまずいよな……と思ったので、大好きなマンガの仕事がいいなと思いました」 ゆくゆくはマンガの仕事に就きたいという思いを胸に、大学進学のため上京。大学では日本文学を専攻した。 「今思うと、学科の選び方も“好きなことしか勉強したくない”感がありますね。小説も、ぱふから影響されて、コバルト文庫から入ってエンタメ小説を10代で読み、髙村薫などのミステリー系も読みました。髙村薫の作品は、社会的なことや政治的なことが絡み合いながら人間ドラマが進んでいくのが好きだったし、あとはとにかくBLっぽかったのが本当に好きで(笑)。卒論も髙村薫で書きました」 ここまでの道のり、正統派オタク女子と言って差し支えないだろう(ただし陽キャ)。お小遣いは全部マンガにはたき、地元のさまざまな本屋情報を把握、日参し立ち読み。ぱふを愛読し、コバルト文庫を経て髙村薫に至る。面白いのは、学生の時点ですでに「自分は好きなことを仕事にしないとマズい」という、自己分析に基づいた切迫感を抱いていたことだ。そこには、こんな気づきが影響しているという。 「高3のときに授業をさぼってマンガを立ち読みに行くことが多くて、『とにかくマンガを読みたいんだな』という自分の性質に気づいたんです。つまり、マンガを仕事にしないと社会から足を踏み外してしまうなと思った。この時点でかなり自分のことを自覚できました。 実際、マンガを仕事にしてみると、めっちゃ楽しいから全然飽きないし、好きな作家さんと打ち合わせしてネームが出て、原稿をもらうのも全部楽しくて。作家さんによって創作方法はそれぞれで、お話が泉から湧き出てくる感じの方もいるし、真っ暗な穴から白い手がにゅって出てくる、みたいな方もいて、マンガ家がマンガを生み出す工程が全部好きだなって感じる。それを近くで見たり助けたりするためだから、仕事をがんばれる感じです」 まさに天職と言えるだろう。仕事を実際にやってみてギャップはなかったかと聞くと、「マンガ家を描いたマンガもたくさんあって、それを読んでいたのでそんなに落差はなかった」。さすがというか、仕事に関するあれこれも、すでにマンガで履修済みだったのだ。 ■ 新卒で出版営業「嫌だと思っていたことが本当に……!」 就職活動では出版社で編集者になることを志しつつも、新卒では角川出版販売という出版営業の会社に就職する。 「おしゃべりは好きだから、営業という仕事自体はいいんですよ。ただ、雨天でも雪の中でも、注文書の束や販促物の入っためちゃくちゃ重いカバンを持って、書店を回らないといけないのが大変でした。務めていた会社は、角川グループのマンガの注文書を全部持っていくので、1店舗用の書類だけで厚さ2センチはあって……それを雨でも1日5、6店舗回るわけですから、本当に重くてつらかったです(笑)。『高3のときに嫌だと思っていたことをやることになった!(泣)』って思いました」 3年で退社し、今度は幻冬舎コミックスで念願だったマンガ編集部のアシスタント業に就くも、先輩との関係がうまくいかず、思っていたように編集の仕事を教わることはできなかった。転職を決意した梶川氏は、編集プロダクションであるシュークリームのアルバイト募集を目にし入社。26歳でマンガ編集者として本格的に歩みだした、当時のハングリーな日々を振り返る。 「要領も悪いしがむしゃらすぎる。『会社に寝袋持ち込まないで家に帰って!』って言いたい。編集としてスタートが遅いから、人の2倍やってこそという馬力があったにせよ、深夜の原稿待機◯連続とか、やりたいだけやっちゃう若者、怖いなって感じます。時代的にもまだギリギリそういうことをやってる時代だったとはいえ。入社してから、社内の先輩が社長夫婦しかいない時代が長かったので、うまく仕事を回す工夫を知らなかったんですよね。それに、特殊な能力があるタイプでもないのでがんばりで埋めるしかあるまいと思い、がんばれた感じです。今はちゃんと家で寝るし、サブ担当に入ってもらってます」 ■ 初単行本で初ヒット「オハナホロホロ」 仕掛けの裏側 こうしてマンガ編集として歩み出した梶川氏は、「パリパリ伝説」(かわかみじゅんこ)、「本日の猫事情」(いわみちさくら)などの作品を引き継ぎながら、「うさぎドロップ」(宇仁田ゆみ)や「死化粧師」(三原ミツカズ)などのサブ担当としても経験を積む。入社して2年目、最初に企画立ち上げから担当したのは鳥野しのと町麻衣だった。鳥野は梶川氏が同人誌を愛読していた作家で、町はフィール・ヤングに投稿してきた作家。両名とも商業では新人だった。初めてのヒットは、梶川にとっても鳥野にとっても初の単行本「オハナホロホロ」だった。 「鳥野さんは長く同人誌で描かれていた方なので、デビュー作からめちゃくちゃうまかった。ありがたいことに、A5判コミックの第1巻が、2カ月くらいで紙だけで5万部を超えました」 「オハナホロホロ」は、翻訳家の麻耶が、かつての同性の恋人・みちるとその幼い息子と同居することになり、そこに同じマンションに越してきた俳優・ニコも毎日のように顔を出すようになって……という、不思議な関係の4人が織りなす温かな暮らしを描いた作品だ。2008年からフィール・ヤングで連載され、単行本は全6巻が発売された。 「鳥野さんは同人誌を長く描かれていて、ご自身の得意なことを体得して来られた方です。そうした中で、暮らしもの、家族の人間関係を描くと決められて、連載が始まりました。マンガも小説もすごく読まれていて、本当に新人離れしている方だったと感じています」 作品のヒットを後押ししたのは、新人・梶川氏の”仕掛け”だった。 「発売前に書店さん向けの販促会を開いて、店頭で推してもらえたことが1つ。そして、鳥野さんがアシスタントをしていた縁で人気の作家さんに帯コメントをいただいたことで、いい作家が出たと世の中に気づいてもらえたことですね。担当作で初めて単行本を出せて、ヒットしたことがすごくうれしかったです」 初単行本で、ここまで戦略的に仕掛けることができたことに驚く。つまりは、書店営業の経験がものを言った。 「営業時代からの書店さんとお付き合いがあり、マンガが好きな書店員さんを存じ上げていたので、『君がマンガ編集になって1冊目の本だから協力してあげるよ』と言っていただけて。皆さんに集まってもらって、旗艦店になってくださるようお願いする販促会を開催しました。 ただ、集まってくださった方に『どの層に向けて売るの?』って聞かれたときに、私は『えっ? こんな面白いマンガみんな好きじゃん』としか答えがなかったんです(笑)。本当に全部の層にウケると思っていたのですが、話し合いの中でうまく答えを導いていただき、『女性向けでほんわか好きの人へ』とか、『家族ものや暮らしものが好きな層を狙う』というふうに言語化できました。ただ、今考えると新人編集がどこ向けかも考えずに書店会をやったと思うと、怖すぎるなと感じます(笑)」 ■ 町麻衣の忘れられない一言と、作家の経済 シュークリームに入社してからは順風満帆の仕事人生を送っているように見える梶川氏だが、新人時代には反省している思い出もあるという。 「町麻衣さんは北海道でマンガの専門学校に通っていて、1年生のときから東京に行っては持ち込みをし、爆死して帰ってくるというのを繰り返していました。卒業後にフィール・ヤングにも投稿して、その後入社した私が担当することになりました。 町さんが上京してきたとき、真冬なのにジャンパー1枚とかで、いつも薄着だったんです。私はそれを見て『北海道の人はさすが寒さに強いですねー』なんて言っていたのですが、あとあとになって町さんがぽろっと、『あの頃は服を買い足すお金がなかったんです』っておっしゃっていて……。ハッとしました」 町は、梶川氏と立ち上げ、現在も連載中の「アヤメくんののんびり肉食日誌」で人気を博す作家だが、芽が出るまでには苦節の道のりがあったのだ。その経緯は、「アヤメくん」連載10周年を記念したインタビューに詳しい。 「当時、町さんにはフィール・ヤングでショート代原(代理の原稿。予定していた原稿が載せられなかったときなどにかわりに掲載する)を描いてもらっていて、短いページのほうが台割の隙間にスッと差し込めて、早く載せられるので、4ページとか8ページで力を伸ばしていただいていました。 ただこの時期、連載をするために誌面でどう攻めていくかを話していたつもりではあったけど、もっともっと打ち合せすべきだったなと反省していて。編集は作家の経済に深く関与している関係性なのに、全然あの頃はわかっていなかった。呑気に『薄着っすね』って言ってる場合じゃなかったなと」 反省を活かし、同じ轍を踏まないように気をつけているという。 「自分で依頼した新人さんには、お仕事を始めるときに経済的なことは説明するようにしています。例えば、こんなふうに。『原稿料はサラリーマンで言ったら月給みたいなもの。印税はボーナス。サラリーマンと作家さんの違いは安定があるかないか。だけどボーナスは年に1回きりだけど、印税は読者に好かれてよいと思われたら何回でももらえる。だから、なるべく多くの人がいいなと思うような作品にすることで、経済的にも変わってきます』と」 新人作家となると、若い人で中学生や高校生もいる。本当にフェアな関係を結ぶなら、特に就学前の作家の卵には、どの編集者もここまで踏み込んだ説明をしたほうがいいだろう。梶川氏からは、作品だけではなく、作家の人生に責任を負っている編集者としての「大人」の覚悟が感じられた。 ■ ヤマシタトモコと「違国日記」に辿り着くまで のちに「違国日記」などで長くタッグを組むことになるヤマシタトモコとの出会いは、ヤマシタの初サイン会だった。2008年冬、「恋の心に黒い羽」(東京漫画社刊)が出た当時のこと。 「サイン会で名刺を出して『すごく好きなので、お仕事をご一緒にしたいです』とご挨拶しました。ヤマシタさんは笑ってらっしゃったんですけど、出版社の担当さんはどう思われたことやら。今、私の担当作家さんのサイン会でそんなヤツが来たら『ものども、出会え出会えー! つまみ出せ!』ってやりたいくらいで(笑)。本当に、そうした常識を教えてくれる先輩がいないって怖いってことです。 ヤマシタさんからメールをいただいたときは、本当にうれしかったです。そこからお会いすることになり、『エボニー・オリーブ』というガールズトークものの読み切り作品で初めてお仕事させていただきました。その後、『Love, Hate, Love』『HER』『ひばりの朝』とご一緒させていただいています」 2017年にフィール・ヤングで連載を開始した「違国日記」は、2023年7月号まで掲載された。30代の小説家の女性・慎生(まきお)と、突然の事故で亡くなった姉の子供である中学生・朝(あさ)が同居を始めたことから巻き起こる、さまざまな出来事を綴った人間ドラマだ。家族なのにうまくいかなかった慎生とその姉、元彼で友人の笠町、悪友たちや作家仲間、朝の友人のえみりなど、何もかも“違う”人間たちが、それぞれの生活を生きる。人間の不器用さとひたむきさを写し取った、ぎゅっと胸がしめつけられるような物語だ。リアルタイムで連載を追っていた筆者にとっても大切な作品となった。 「ヤマシタさんは、デビュー前にアフタヌーンの編集さんに『人と人は分かり合えない、ということを描きたい』とおっしゃっていたそうですが、それはすべての作品に通底して描かれていると思います。そして、『違国日記』はそれがよりわかりやすく打ち出された作品だと思っていて。 『あなたとわたしが別の人間だからわかり合えない(要約)』といったセリフもあるし、同居している慎生と朝は大人と子供というだけではなく、孤独を愛している人と、孤独がつらい人として、全然違う性質の人間です。だけど、終盤で慎生が言う『それでも』というセリフ。人と人はわかり合えない。それでも歩みよって状態をよくしていこうとする意思を描いたところ──私はここがすごく好きで、ヤマシタさんがずっと描いてきたことだけど、ハッキリと『それでも』って言ってくれた作品は初めてのような気がしていて、すごく感動しました。 私たち自身、いろいろ問題だらけの社会とか生活をやっていくしかない。諦めないでいこうという気持ちにさせてもらいました。私にとってこの物語の最も愛しいところはそこです」 2007年に単行本デビューしたヤマシタにとって、一番長い巻数の作品となった。意外なことに、梶川氏にとっては、不安な始まりだった。 「どういう話が始まるのかよくわからずに始まった印象です(笑)。ネームの1話を読んだときに、私は『大丈夫ですか? 面白くなるんですか?』という意味合いのことを柔らかく言ったらしくて」 ヤマシタという人気作家に対して、柔らかくとも率直にツッコめるのはすごい。 「それに対して、ヤマシタさんに『大丈夫です、2話を待っていてください』と言ってもらって『わかりました』と始まったのがこの作品なので、『違国日記』の立ち上げに関して、私は大きなことは何も申し上げられません(笑)」 作品に不安を感じたときにはハッキリ伝える。伝え方がよくなかったり、作家との関係性を見誤っていたら危険だが、これも作家に信頼され、まだこの世にない作品を生み出すために必要なアクションなのだろう。 「編集者は第一の読者ですし、不安を感じるような姿のままシンデレラを舞踏会に送り出してはいけない馬車のような存在でもあります」 ちょっと不思議な格好をしたシンデレラ。だけど彼女を信じて舞踏会に送り出したら、とても素敵な王子様をゲットして帰ってきた──「違国日記」はさながらそんな作品だろうか。 ■ 長年の片思いは、翌日ネームになって 15年以上の付き合いになるヤマシタの「天才」を感じたエピソードも教えてくれた。 「20代後半の頃、ヤマシタさんとお茶をしていて、『今度、長年片思いしていた同級生の結婚式に行くんですよ~』ってしゃべっていたら、翌日そのことが元ネタになっている読み切りのネームがFAXされてきました。昨日の今日で?って度肝を抜かれて。ヤマシタさんはFAXのはじっこに『勝手に描いてすいません』的なことを書いていたんですが、自分としてはすごい体験だったなあと思うし、光栄で、感謝しています。 20代のヤマシタさんは、脳内で物語を組み上げて、それを10分くらいで一気にネームにすることもあって。やっぱりあの人はやばい天才なんだと思います。今は1本描くにも、さまざまな角度で練り上げる精度が高まっているので、前より時間をしっかりかけるようになったようですが、当時のヤマシタトモコの剛速球が短編集『ミラーボール・フラッシング・マジック』に詰まっている。私は担当作の中でも同作がとても好きなんです」 ヤマシタの天才的な筆によって、梶川氏の長年の片思いが成仏した作品の名は「カレン」。これも短編集「ミラーボール・フラッシング・マジック」に収録されている。とある結婚式の場面が登場するが、ヤマシタは当然ながら式には出ていないので、その部分は創作だそうだ。こうして、作家の「描きたい欲」を喚起させるエピソードや話術が展開できることも、間違いなく編集者としての才能だろう。「天才的といえば……」と、もう1人、えすとえむのエピソードを語ってくれた。 「えすとえむさんと『いいね!光源氏くん』を立ち上げたときの話です。私は『あさきゆめみし』(大和和紀)のファンで、大学も日本文学科で『源氏物語』を読んでいました。そしてえむさんも中学生のころから『源氏物語』が好き。そんな私たちの間で、『光源氏くん』は光源氏がタイムスリップしたら?という簡単な思い付きから始まったお話なんです。実際、やるとなると資料とか用意しないとなあと思っていたら、えむさんは彼女は“知りたい”と“描きたい”がセットになっている人なので、『源氏物語』を好きになった中学時代に十二単の平安衣装をひたすら描いていたそうです。 なので、時代ものなのに私は資料の用意は一切しなかったんですよ! なのに、あまり作画では困っていないのを見て、すごいなと思いました」 「いいね!光源氏くん」は、都内在住のOL・沙織のもとに、いきなり光源氏がタイムスリップ。何をするでもなく、持ち前の人間力(女たらし)で、Twitterで和歌をつぶやいたりしながら、毎日楽しく暮らす(美形ニート)……という異色のコメディ。美麗な絵で繰り出されるとぼけた展開が絶妙の作品で、2020年と2021年の2度にわたり、NHKでドラマ化され、さらなる話題を呼んだ。 「えむさんは、誰でも共感できる“わかる”ツッコミが異常にうまいクレバーな人です。ポジティブに愛される男である光源氏と、器用な二番手男である頭の中将の関係性の作り方が巧みで、そこに主人公の藤原沙織さんがズバッとツッコむ感じに、読み手の誰もがとスカッとする──えむさん本人と話しているときに味わえるツッコミ力が、そのまま活きたなと思っています。作家さんのもとの性質と専門性が絡んでうまく跳ねた楽しい作品になって、印象的でした」 ■ on BLUE 創刊 こだわり秘話 フィール・ヤングという唯一無二の存在感を放つマンガ誌でヒットを牽引してきた梶川氏の功績は、一般誌だけにはとどまらない。2010年にはBL誌・on BLUEを立ち上げた。on BLUEはこんなふうに始まった。 「もともとは、祥伝社の方と飲んでいる最中の、『BLやりたいですね』という軽い盛り上がりから始まりました。ただ当時、祥伝社にとってBLは未知のジャンルなので、慎重で、乗り気ではなかったですね。なので最初は年3回の刊行から……今思うと乗り気じゃないのに定期刊行でオッケーしてくれる祥伝社は優しいですね(笑)。 当時、月刊誌であるフィール・ヤングの編集をやりながら、1年ちょっとかけてon BLUEの創刊準備をちまちまやっていて。そこで、『忙しい中でやるんだから、私が楽しめるように作ろう』と思いまして。作家さん選びもすごく楽しんだし、デザインについてもフィール・ヤングでお付き合いのあったデザイナーさんに依頼して、同誌と同じように本作りをしました。具体的には、デザイナーさんに作品を読んでもらって、作家も含めて事前打ち合わせして、構図から案を出し合ってイラストも念入りにチェックして、という工程です。当時のシュークリームで本を作るってそれが当然だったので、環境にも恵まれていて幸運だったなと思います」 2010年当時はBLコミックを出す出版社といえば専門出版社が多く、デザインを含め創刊号から女性向けコミックで蓄積したノウハウをバンバン投入できたことは、on BLUEの強力な武器だったように思う。おしゃれで都会的なフィール・ヤングで磨かれたスタイリッシュ路線の装丁は、店頭でも非BLファンを含むマンガ読みを惹きつけたと推察される。 「今ではいろんな方に頼んでいますが、初期の装丁は、ジェニアロイドの小林満さんや名和田耕平さんにすごく頼っていました。小林満さんはとにかくスタイリッシュで、名和田さんはフィール・ヤングの単行本でもすごく凝ったことをやっていらっしゃって、本当にありがたかったです」 on BLUEコミックスの装丁はどれも、コンテンツの個性とデザインがリンクしていて、すべて趣が違うが、どれも美しい。そっと手で紙に触れたあとは、飾っておきたくなるような美麗さだ。ぜひホームページで全容を眺めてほしい。 現在は隔月刊だが、創刊当初は年3回という多くはない刊行頻度から始まったこともあり、こだわりながら作品作りを進めたという。 「依頼作家さんは、まず既存ファンがいる、筆力が高い人をメインにお願いしました。その方たちに、忌避されがちだったファンタジーでもSFでも死にネタでも、『面白ければなんでもいいです』とお伝えしていました。才能があるうまい作家さんなら難しいネタでも面白く料理してくれると思ったからです。中身も外側も本棚で大事にしてもらえる本を作る、という趣向が強かったです。約2年かけて単行本を作るから、めちゃめちゃイケてる本にしたいんですよね」 満を持して、2010年12月10日に発売された創刊号では、山中ヒコを特集。執筆陣には、えすとえむ、明治カナ子、雲田はるこら、人気作家たちが名を連ねている。 「特に筆力の高い作家さんたちにお願いできたのは本当に運が良かったなと思います。紀伊カンナさんが爽やかで温かな印象を雑誌に作ってくださった一方で、彩景でりこさんやのばらあいこさん、たなとさん、ためこうさんはハードなBLを描いてくださって、寒暖差が激しい誌面ではあったなと思いますが(笑)。紗久楽さわさん、丸木戸マキさんは知性的なストーリーで読みごたえがどんどんできていきました。 もともとは私が1人で始めてはいるんですが、その後加わってくれた、現在のOUR FEEL編集長の神成明音(かんなりあかね)とfrom RED編集長の小林愛の3人で、on BLUEの初期を一緒に作っていきました。全員ストーリーこだわり編集で、3人とも複数レーベルかけもちで必死にやっていたので、中身に関してはほかの雑誌と差別化する、みたいなことはあまり考えてなかったですね」 OUR FEELは「フィール・ヤング編集部が贈る新しいWebマンガサイト」として2024年6月に立ち上げられたばかりだ。イメージキャラクターのデザインを「女の園の星」の和山やまが手がけている。from REDは「ボーイズラブの新しいダンスフロアへ」をモットーに2020年に始まった、シュークリーム発のBLレーベルである。フィール・ヤングやon BLUEから続々と新しい芽が育っている。 ■ 一般誌とBL、作るうえでの切り替えは?「ややこしい蜜柑たち」 女性向けマンガとBLの2ジャンルの両方で、精力的にクリエイティブを行う梶川氏。両ジャンルを垣根なく楽しむ読者は多いが、作る側としてはどのように気持ちを切り替えているのか気になっていた。どうも梶川氏を悩ませた質問の1つだったようで、時間をかけて考えたうえで、メモを見つつ答えてくれた。 「作るうえでは、気持ちの切り替えはしています。女性向け一般誌はテーマがかなり広いので一概には言えないのですが、社会のいち風景を切り取るようなテーマでも恋愛ものでも、人間関係や生活感覚の捉え方に現実感があったほうがいいと思っています。『私も同じだ!』みたいなあるあるとか、『よくぞここを言語化してくれた』みたいな共感を与えるもの。なるべく広くとは思いますが、実際には20代以上の人の感覚を拾っていくことが多いです。その人たちに『夢みがちすぎ』と思われないよう、自分たちの生活とつながっている物語だと思ってもらえるように気をつけています。 一方で、BLは感情のドラマを見たい人が多いジャンルだと思っています。トキメキ、萌え、クソデカ感情。読者には、その感情がどう盛り上がってカタルシスを作るのかというドラマを見られている気がするので、こちらはあるあるとか現実感最優先ではない。そうした2ジャンルを行き来している結果、編集としての相乗効果はあると思います。両方のジャンルのライト層からコア層に向かってリレーションを繰り返していくわけですから」 「相乗効果」の最たる作品は、フィール・ヤングで連載中の「ややこしい蜜柑たち」(雁須磨子)だという。 「親友への執着が強すぎて、親友の彼氏と寝てしまった迷走女を描くお話なんですが、その寝取った彼氏の感情がBLっぽいんです。彼は、自分と軽はずみに寝てしまっただけのくせに懐いてくる主人公女性に心底ムカついてる。なのに、どうしても気になる。結果、好きになってたまるかという感情にのたうちまわっている。でもその彼女の行動への分析は超現実的で、ちょっとドライなくらい。こうした、どちらの要素を含んだ変わった作品もあるので、いつも両ジャンルの間を反復横跳びしている感じです」 異色の作品、「ややこしい蜜柑たち」。最初は主人公の清見(きよみ)が常識人で、学生時代からの友人の初夏(ういか)がかなりイッちゃってる性格のように見えていた。が、物語が展開するとともに、清見も相当ややこしい性格(癖)であることが判明する。まるでミステリーでいう「信頼できない語り手」に出会ったときのようにゾッとする、刺激的な面白さの作品だ。それ以外の登場人物たちも、隣にいると怖いが、現実でも絶妙に見たことがあるような気がするキャラクターばかりで、「怖かわいいホラーラブコメ」と勝手に称したい。確かに梶川氏の言う通り、BLが描くような名付け得ぬ「クソデカ感情」と、一般誌で見かける「恋愛・友情あるある」がどちらも描かれていて、両ジャンルの反復横跳びの中で生まれた徒花のような作品だと感じる。個人的には、かつてのアイドルユニット・生ハムと焼きうどんが好きだった人に、ぜひ読んでもらいたい作品だ。 「読んだことがない、食べたことがない味がするような、すごく面白い作品です。雁さん、原稿は遅いんですけど、やっぱり会話劇の回とかすごすぎて『天才と仕事してるんだな』と感じます。ご本人はいたって柔らかい方なのですが、いろんなことの回転が早くって、人の何十倍もの速さで“人”が見えているのかなと思います」 ■ 君たちは「キャラに芝居がつけられるか」? このように、さまざまなタイプの作家やジャンル、物語を手がける編集者、梶川氏。今も変わらず新人の持ち込みを見ている氏がそこで重視するのは、「キャラの芝居」だという。 「仕草とか表情、演技です。キャラクター、ストーリーに合わせて芝居をつけているかどうかを見ています。絵が崩れていても、読者に伝えようと目や眉、口などに感情が乗っていれば、画力がなくても芝居はつけられるのではと思っていて。“描いていて気持ちよい描きやすい線”に傾くと、表情も硬くなって物語に引き込まれにくくなる。一方で、芝居がうまいと、絵がそんなにうまくなくても引き込まれていくのではと思っています。 物語って、感情の見せ場の派手なコマもあれば、地味で描きにくい楽しくないコマもたくさんあります。そのコマたちをそこに必要だからと描く根気って、人に物語を伝える根気とつながっていると思う。その根気がある人とご一緒するのが好きですね」。 他人に物語を楽しんでもらいたいから描くこと。梶川氏の一言は、商業作家として食っていくために必要な条件を言いえていると感じる。 ■ 性的に奔放な男性キャラは、もはや 梶川氏の口から出てくるエピソードは、どれも半日かけてじっくり聞きたいほど面白い。それは、氏の興味の範囲が広く、深く、また話術も巧みで、明晰な分析能力と出力機能を備えているからだと感じる。人間に対する興味と愛情が大きい人物である。そんな梶川氏には、読者が求める物語や恋愛、キャラクターがどう変化してきたと感じているのか、ぜひ聞いてみたかった。 「読者が生きる現実の社会で、みんなが必ずしも結婚を目指すわけではなくなったり、恋愛をしている状態を普通とする抑圧から解放されようとする流れがあるので、物語でもそうした多様性を描くことが求められてきていると思います。恋愛の情緒を見たいという希望はたくさんあるので、恋愛ものはやっぱり売れるのですが、主人公が抑圧されている中で無理に相手を作るところなんてもう誰も見たくないんだな、と感じますね。『結婚しなきゃ』とか『彼氏がいない私はおかしい』とか言いながら、無理に相手を作るような物語は、たくさんの人にはもう受け入れられないでしょう。 さまざまな人種や性的趣向、恋愛趣向の人が、理由なく物語にいたり、それらを実現している物語を好意的に受け取ってもらえるようになってきていると思います。」 現実の社会の進歩とともに、かつそれを先取りした「ありうるべき社会」を、物語の中でもスマートに実現しているものが好まれているのかもしれない。その昔、王道の少女マンガの後日譚として、ヒロインが意中の男子と結婚して、2人にそっくりな子供がたくさんできて子育てに奮闘中!みたいなストーリーが紋切り型だった頃を思い出すと、世の中の変化をひしひしと感じる(もちろん、そうした「幸せな暮らし」の1つの形を築いていてほしい、と思うカップルたちは、今もたくさんいるのだが)。 一方、女性誌における男性キャラクターの変化も感じているという。 「私が入社する前、つまり2000年代後半くらいまでのフィール・ヤングだと、性的にかなり奔放で、どちらかというと不真面目な男性キャラのほうがウケたと社長に聞きました。だけど、今はそれがカッコいいと思われず、性的魅力ではなくなってきましたね。男性も生きづらさを抱えていて、恋愛面においても社会的にもジタバタしているよね、というのが描かれるようになった。『こっち向いてよ向井くん』(ねむようこ)の向井くんもそうですよね。社会が変わったからマンガのキャラたちも変わったなという感じです」 これまた筆者も大好きな「こっち向いてよ向井くん」は、実家暮らしの会社員で、気づけば10年彼女がいない向井くん(35)が、「恋愛ってなんだっけ」とジタバタしながら前に進んだり、ちょっと戻ったりする新感覚のラブ(?)ストーリー。元カノから言われた一言が忘れられず、新たな恋愛を前にしても優柔不断で煮えきらない向井くんの奮闘には、やきもきしながらも共感し、愛しさを感じる。個人的には、「違国日記」に連なる、社会通念や常識をもう一度疑ってみる気持ちにさせられながら、豊穣な物語の海にどっぷり没入できる作品だ。 ■ 編集者としての醍醐味を感じたのは、「ヤマシタトモコからのとある原稿」 マンガ編集者になって15年あまり、編集部には年に数回、「いつもありがとう」という読者からの手紙が届くという。 「うれしくて、みんなで『やった!』ってなります。読者からのアクションで印象的だったのは、夏野寛子さんの『25時、赤坂で』の4巻で、羽山麻水(はやまあさみ)と白崎由岐(しらさきゆき)の誕生日が明かされたあと、誕生日当日の0時に、ファンの方がアカウントでケーキやグッズでお祝いしてくれたとき。かわいい写真が続々と投稿されて、感激しました。その中でさらに、ニューヨークのタイムズスクエアの街頭ビジョンにお祝い動画を掲出したファンの方がいて! ド肝を抜かれましたね(笑)」 「芸能界ものなので、『彼らがいる世界線でファンをやりたかった』という声が上がる作品なんですが、まさかまさかでした! 熱量が高いファンの方に驚かされた一例です」 タイムズスクエアの街頭ビジョンに広告を掲出するにはいくらかかるのか不明だが、なんと豪気でカッコいいお金の使い方なのだろうか。 さらに、「編集者人生で味わった醍醐味」というキーワードを投げかけたところ、ここでもヤマシタが登場した。 「以前、編集者数人にインタビューしてまとめるという本の企画の中で、懇意にしている作家さんが担当編集者について描くというエッセイ企画がありました。そこにヤマシタさんから『お前のこういうところがいいよ』というのを描いた原稿をいただいたのですが、それがすごくうれしくて、私の宝物の原稿なんですよ。編集者は感想を言葉にしなくてはいけない立場なので語彙消失とか言っちゃダメなんですが、その原稿は言葉にならなかったですね」 残念ながら書籍の制作は諸事情で中止となったため、いったんはお蔵入りしかけたという原稿。ヤマシタの許可を得たうえで、去年梶川氏の誕生日に自身のXで公開したそうだ。ここまで深堀りをしてきた梶川氏の性格や編集者としての誠実さ、そしてヤマシタとの関係性がよくわかる、とても素敵な原稿だ。 それにしても、筆者は梶川氏のことを10年以上前から知っているが、いつも会う度に思うことがある。健康食品のCMのようだが、「なんでこの人はいつもこんなに元気なのだろうか」? 「(笑)。おしゃべりが好きなんです。本当に気をつけないといけないくらい“おしゃクソ野郎”なので、いろんな人としゃべると楽しくなっちゃうんですよ。マンガの編集が楽しいのも、作家さんと話をするのが楽しいんだと思います」 ■ 編集者は「作品の価値=自分の価値だと思わないこと」 何も気にせずにいたら、夜が明けても同じペースで話が続いてしまいそうな梶川氏。楽しい。ある種の編集者の鑑である氏が思う「編集者の心得」とは、「担当している作品の価値=自分の価値と思わないこと」。痺れる。 「実際に描いているのは作家さんだし、名前を出して世の中から評価を受けているのも作家さん。編集者がどんなにアイデアを出したり盛り上げに貢献したとしても、やっぱり自分の名前を出していないし、安全圏から創作に関わっている。自分のおかげと思わずに、自覚して仕事をしたほうがいいと思います。私は自分のことを、『作家さんのツボにうまく当たれ!』と思って押している“ツボ押し師”だと思って仕事しています。これはかなり強烈に思っていることです」 この質問をして、「戒め系」の回答が出たのはシリーズ上初かもしれない。 「自分のおかげで売れた!と明確に思えることってあまりないですし、やっぱり、作家と編集者が打ち合わせをしたとして、その後にネーム描くの絶対大変でしょ?って思うから(笑)。だからネームって遅い人は遅いのだと思うし。セリフも演出も絵も全部作家さんが作ってることなんで」 この姿勢、徹底して作家を尊重する姿勢に、背筋が伸びる思いだ。ヤマシタの原稿にも見て取れたが、梶川氏が作家から愛され、信頼を得ているのはこうした「芯」ゆえんであろう。現在、シュークリームの取締役でもある梶川氏の夢は、「60歳くらい、できれば65歳くらいまでは編集のお仕事をしていきたい」。これに尽きるのだそうだ。 「管理職でもあるのですが、私は編集のお仕事が好きなので、ずっと編集をやっていきたいです」 ■ 梶川恵(カジカワメグミ) 1981年、新潟県出身。大学卒業後、角川出版販売、幻冬舎コミックスを経て、2007年11月にアルバイトでシュークリームに入社し、翌年4月正社員に。主な担当作品に、町麻衣「アヤメくんののんびり肉食日誌」、鳥野しの「オハナホロホロ」、かわかみじゅんこ「中学聖日記」、えすとえむ「いいね!光源氏くん」、河内遙「夏雪ランデブー」、ヤマシタトモコ「違国日記」、雁須磨子「ややこしい蜜柑たち」、紀伊カンナ「春風のエトランゼ」、夏野寛子「25時、赤坂で」など多数。