本土決戦に備え霧島神宮周辺に20カ所以上の戦車壕が築かれた。空襲警報が鳴った日の帰り道、中をのぞくと兵士の死体が転がっていた。いつの間にか戦車隊はいなくなったが、ひどい食糧難で関心もなかった【証言 語り継ぐ戦争】
戦況の悪化は戦車隊の装備を見ていても分かった。45年4月にやってきた最初の部隊の兵士は日焼けをした精悍(せいかん)な体つきで、軍服に軍刀、革靴だった。しかし、その後の増援部隊は色白で痩せ細り、上着の軍服以外はもんぺに地下足袋という急ごしらえのありさまだった。 その年には既に「一億総玉砕」と言われていた。当時は思想教育が激しかったため、絶対に誰も口には出さないが、日本が負けるかもしれないということを、うすうす感じていた。 腹をすかせ、汗水垂らして戦車壕を掘っていた時にはもう既に、日本の敗勢は決まっていたのだ。そう考えるとむなしさや悔しさを覚え、昔を思い出すこと自体が嫌になった。終戦後に自分たちが掘った戦車壕跡の前を通っても、何も感じないようにしていた。 終戦後は進学せず、農家を継いで家族を養うために必死だった。自分が何をしたいかとか、何になりたいかも考えなかった。戦争のない今の若者は幸せだ。一握りの為政者のために国民が犠牲になる戦争は絶対してはいけない。そう強く思う。
(2024年9月6日付紙面掲載)
南日本新聞 | 鹿児島
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