ユーミン、細野晴臣、大滝詠一らが一堂に会した伝説のライブハウス「荻窪ロフト」のオープニングセレモニーの舞台裏「“日本のロックの夜明け”が見えてきた」
日本のロック・ミュージックが真の意味で市民権を勝ち取る前哨戦があった。そのメインステージとなったライブハウス「ロフト」の創設者である平野悠が回顧する壮大なクロニクルがある。 【画像】細野晴臣、松任谷正隆らによる伝説のバンド「ティン・パン・アレー」の若かりし頃の姿
『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)より、一部抜粋・再構成してお届けする。
1974年にオープンした本格的なロックのライブハウス
ロフト3軒目の荻窪ロフトは、1974年11月に中央線・荻窪にオープンした、当時はまだ珍しかったロック系ライブハウスだ。広さは35坪で、隣近所に遠慮なく音が出せるようにと地下へ潜ることになった。 細野晴臣、坂本龍一、はちみつぱい、シュガー・ベイブ、ハイ・ファイ・セット、イルカ、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、大貫妙子、鈴木茂、RCサクセション、サンハウス、四人囃子、桑名正博、ティン・パン・アレー、矢野顕子などのライブを行なった。 その動員力はニューミュージックというジャンルを不動のものとし、以後の第一次ライブハウス・ブームの火付け役となった。1980年に閉店。 西荻窪ロフトをオープンしてからまだ半年足らずだった頃、私は自由に爆音を出せる「ロックの空間創作」を夢想した。それが荻窪ロフトとして結実したのだ。 そうした本格的なライブハウスを作るには、地下室が絶対的に必要だった。そうでないとまともな音が出せない。それでまた借金をして、地下空間のライブハウスを作ることに決めた。 1974年と言えば、福島県郡山市内で『ワンステップ・フェスティバル』という内田裕也と石坂敬一がプロデュースしたロックフェスが開催され、オノ・ヨーコのバンドに交じり、サンハウス、イエロー、外道、めんたんぴん、四人囃子、クリエイション、シュガー・ベイブ、センチメンタル・シティ・ロマンスといった次世代を担うロック・バンドが大挙出演していた。 今こそ日本のロックが熱い、この熱を大事にしたい、私はその一心で、ロックを志す若者たちが安心して演奏できる地下空間をなんとか探し求めた。その結果、荻窪駅の南口周辺で探し当てたのは、地下倉庫を改造した、天井がものすごく低い35坪の空間だった。 だが、この店はなぜか多くの音楽関係者が絶賛するほどの素晴らしい音を出すことで知られるようになった。フィリップスの30インチ・フルレンジのスピーカー4台は確かに自慢できる良い音だった。 それは、荻窪ロフトのスピーカーとコンソールを今は亡き大瀧詠一事務所のコーチングのもと作られたことが功を奏したのだろうし、天井が極端に低いために音の鳴りが実にシンプルかつストレートに響いたからなのだろう。 そうした音響設備の充実も、テイクワンという事務所の協力を得られたからこそだった。また、本格的なジャズやロックのピアノ演奏を聴きたいために、立派なグランドピアノも買った。