ユーミン、細野晴臣、大滝詠一らが一堂に会した伝説のライブハウス「荻窪ロフト」のオープニングセレモニーの舞台裏「“日本のロックの夜明け”が見えてきた」
荻窪ロフトで行われた伝説のオープニング・セレモニー
この荻窪ロフトは、ティン・パン・アレー系ミュージシャンのたまり場となった。オープニング・セレモニーは、歴史的にもう二度とあり得ない一大セッションが繰り広げられた。 細野晴臣、大滝詠一、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫、大村憲司、浜口茂外也、小坂忠、ジョン山崎、小原礼、今井裕、ユーミン(荒井由実)、吉田美奈子……大貫妙子は歌う場所がなくて、カウンターの中から歌っていた。 この時代、私たちが支持する音楽はまだ全くのマイナーだったが、当時の高校生相手の深夜ラジオははっぴいえんどを筆頭に日本のロックの生演奏を流すようになったし、『ヤング・ギター』のような雑誌もロフトに興味を持ってページを割いてくれるようになった。 荻窪ロフトからの録音中継も何度かあり、たとえば山下達郎や大貫妙子が在籍したシュガー・ベイブの荻窪ロフトでの解散ライブも録音中継されたのだ(シュガー・ベイブのライブにはお客さんがたくさん入るようになっていたし、これから動員を増やしていけば「ロフトの柱になれる」と思っていた矢先だったので、私は彼らの解散には大きな衝撃を受けた)。 それが大きな宣伝効果となり、荻窪ロフトは次第にその名を知られ、ライブ以外のロック喫茶、ロック居酒屋の時間でもお客さんが入り始めた。若者たちはリクエストしたレコードから流れる爆音を聴きながら友人たちと酒を飲むようになった。 当時はロックの輸入盤が高価で、裸電球、四畳半、煎餅布団で暮らす若者は自由にレコードを買うことができない。そのため、ロック居酒屋に音楽マニアが集まるといった方程式が確立していった。
“日本のロックの夜明け”が見えてきた
しかし今でもそうだろうが、名もなきミュージシャンにお金を払ってまで聴きに来る客は数少ない。だが、ライブが終わった後の居酒屋営業では演者も打ち上げとして店に残り、朝まで酒を飲む。お客さんがそれに交わり、演者と一緒に飲むのを目当てに来店するようになる。 その結果、お客さんが入り始めて店は黒字となり、当日のライブでどんなにお客さんが少なくても居酒屋で稼いでいるので、儲けのないライブでも続けることができたのだ。私には儲からないライブをやめようという発想はなかった。 その一方で、当時の私は「急がなくては」と常に焦っていた。「このままうかうかしていたら、ロフトは今のロックのスピードについていけない。私たちが築いてきたロック・シーンをなんとしても先頭で切り開いていくんだ」と肝に銘じた。 毎日が熱い気持ちだった。全国から押し寄せてくる新しいバンドの斬新な演奏に感動していた。実に楽しかった。ささやかではあったが、「日本のロックの夜明け」が見えてきた。 そして荻窪ロフト誕生の3カ月後に高円寺に次郎吉、吉祥寺に曼荼羅、新宿に開拓地、約1年後に渋谷に屋根裏が誕生して首都圏におけるロック文化の礎が出来上がった。こちらから特に声をかけなくてもロフトに出演したいというバンドは全国各地からどんどん集まってくるようになった。だが、毎日ライブをやれるほどではなかった。バンドもお客さんもまだまだ少なかった。 私は断固として、店の経営を維持するために週3日限定のライブにこだわっていた。 文/平野悠 ---------- 平野悠(ひらの ゆう) 1944年生まれ。ライブハウス「ロフト」創業者、またの名を「ロフト席亭」。70年代に烏山、西荻窪、荻窪、下北沢、新宿にライブハウス「ロフト」を次々とオープン。その後、海外でのバックパッカー生活、ドミニカ共和国での日本レストランと貿易会社設立を経て90年代初頭に帰国。1995年、世界初のトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープンし、トークライブの文化を日本に定着させる。 著作「旅人の唄を聞いてくれ! ~ライブハウス親父の世界84ヵ国放浪記~」(ロフトブックス)、「ライブハウス『ロフト』青春記」(講談社)、『セルロイドの海』(世界書院)など。 ----------