両腕で歩くミャンマーの牧師と合気道開祖の「最後の内弟子」 Vol.16
合気道開祖の最後の内弟子
「茨城の岩間というところに開祖の道場があってね、そこに私は17歳の時に高校を辞めて押し掛け、弟子入りさせてもらったのよ」 ある夜、本間学は遠い昔を思い起こすように語り始めた。それは3月のまだ肌寒い夜だった。うら寂しい秋田発の夜行列車に乗った学少年は、列車を乗り継ぎ、翌日昼過ぎに岩間駅に降り立ったという。 駅から道場までは約1kmの道程である。秋田に比べれば茨城の春は早い。道端には可憐な白い花を咲かせた梅の木があった。だが、学にはその早春の花は目に映らなかった。 親父が畏敬の念を抱く、合気道の開祖とはどんな人物なのか――そんな不安な思いが少年の心を支配していた。学は父から預かった大事な紹介状を、胸に抱きしめる思いで歩いていた。 終戦間近の昭和17年、59歳の頃に岩間に家を構えた植芝盛平は、82歳になっていた。妻はつと共に岩間に移住し、合気神社および修練道場を建設。周辺を開墾して農場とし、同地を「合気苑」と名付け、かねてより念願であった「武農一如」の生活を送っていた。 しばらく歩くと、地図が示すその場所へ着いた。道場で兄弟子たちに挨拶し、母屋の客間に通された学は、正座をしてじっと植芝を待った。床の間の墨絵の掛け軸の前には、白い梅の小枝が活けられていた。スッと襖が開いて開祖が現れた。 「君が本間くんか」 開祖はそう言いながら着座し、腕組みをしてじっと学をみつめた。 学は、父に書いてもらった紹介状(入門願)の封書を開祖の前に差し出し、「秋田からまいりました本間学です。宜しくお願いします!」と、大きな声で言い、両手をついて頭を畳に付けた。しばらくその書状に目を通していた開祖は「そうか」と言って、白く長いあご髭を撫でながら、学を見つめた。 聞き取りをおこなうと、いつでも夜が更ける。山本はたいてい、本間に御馳走になっていた。記録によれば、この日の夕食は豆のスープ。「小腹がすきましたね。ネパールの健康スープでも食べますか」と言って、本間がレストラン・スタッフのダワに所望したものだ。麺の入ったコクのある豆スープだった。 (Vol.17に続く)
Project Logic+山本春樹