坂口健太郎の真価は“戸惑いの表現”に表れる 『さよならのつづき』に刻んだ稀有な俳優像
坂口健太郎が体現した、和正の無意識に表れる変化に対する“戸惑い”
先述しているように、本作は終始明るい。生前の雄介がまさに太陽のような人間だったのだから。彼の心(臓)を受け継いだ和正は、人間としての性質までもが雄介に寄っていくことになる。以前は飲めなかったコーヒーが大好きになったり、弾けなかったはずのピアノで華麗な演奏をしてみせるほどにだ。ここで坂口の前に現れる高いハードルは、和正という素朴な青年のキャラクターをベースとしつつ、雄介のキャラクターをも体現していかなければならないということ。このキャラクターの配合バランスを誤ると、和正はただの二重人格者のようになってしまう。それでは本作の肌触りというか、テイストやジャンルが変わってしまいそうだ。 和正の内なる違和感や無意識に表れる変化に対する戸惑いを、坂口は非常に丁寧に演じている。周囲が驚くような明るい振る舞いをしたあとに、和正はこれまでの自分との違いに戸惑う。カメラもそれらの一つひとつをきっちりと捉えているから、やはり和正というキャラクターを演じるうえでは、この細部こそが重要なのだろう。『ヘルドッグス』(2022年)のサイコなヤクザ者みたく振り切れた大胆な演技も坂口はできるが、やはり声や表情に何か“含み”が感じられるような、細かな芝居でこそ真価を発揮する俳優だと私は思う。そう、彼の真価は“戸惑いの表現”にこそ表れるのだ(ちなみに、坂口に次ぐ優れた戸惑いの演技をするのは目黒蓮だと思う)。 “大きな運命を背負った人間”というのはどこか記号的だ。しかし、坂口が“戸惑いの表現”で私たちの関心を引くたび、この「記号=キャラクター」は深みを持った生きたものとなる。戸惑うたび、そこには人間の心が感じられる。戸惑った末にどのような言動を取るのかで、キャラクターの“生命力”の大きさは変わってくる。すべて、心の動きをともなっているからだ。坂口健太郎は稀有な俳優である。
折田侑駿