渋沢栄一いくつかの小話(3)「損して得取れ」? 型破りな借金手口
●話し声と懐の大きさ
渋沢栄一が客に接するとき、胸中に壁を作らず、胸襟を開いて快談するのが常だった。そして声の大きいこと、並外れで、書斎の話し声が3、4室離れた応接間でも聞こえるほどであった。そのことを一切意に介さなかった。渋沢は言う。「私になんの秘密がありましょうや」。 人はその懐の大きさに肝を抜かれた。=敬称略
■渋沢栄一(1840~1931)の横顔 天保11(1840)年、武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市大字血洗島=ちあらいじま)で生まれる。村でも有数の財産家だった。13歳のころ父に連れられて初めて上京する一方、単身で藍玉の買い付けに出かける。慶応2(1866)年、幕臣となり、翌3年にパリ万国博使節として渡欧、明治3(1870)年に官営富岡製糸場主任、同8(1875)年、第一国立銀行頭取。同11(1878)年に東京商法会議所(のちに東京商業会議所)会頭、同20(1887)年に帝国ホテル会長、同24(1891)年に東京交換所委員長を歴任した後、同34(1901)年、飛鳥山に転居、本邸とする。同35年に欧米視察、同42(1909)年に米実業団を組織して渡米。大正4(1915)年に渡米、同6年に理化学研究所を創立(のち副総裁)し、同9(1920)年には男爵から子爵へ。同12(1923)年の関東大震災で兜町の邸宅は消失。昭和6(1931)年11月11日没。天保以来、11の元号を生き抜いた。「青淵」の雅号は近くにきれいな淵があったことに由来する。