新型コロナ研究がもたらした基礎研究の新しいあり方。アカデミアとプレプリントとSNS(後編)連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
■拡散のための「SNS」 私は自分のラボのXのアカウントを持っていて、そこで情報を得たり発信したりしているが、パンデミック初期のSNSには特に大きなうねりがあった。貴重な研究データがばんばんプレプリントに掲載され、それがSNSで拡散されるようになったのだ。 つまりSNSが、査読を経ていない研究内容を共有し、拡散し、議論するための場となったのである。そのときのことは今でも肌感覚で覚えているが、「世界中で共同研究を進めている」「世界が一丸となってパンデミックに対峙している」という空気感がたしかにあった。 それはまさに集合知であり、人類(あるいはウイルス学者たち)が叡智(えいち)を結集させて、事態を収束させようとする気概に満ちていたと思う。「パンデミック」という社会を分断する事態が、世界中のウイルス学者たちを結束させ、一丸となるきっかけとなったことは皮肉なものである。 このような空気感、一体感を肌感覚としてひしひしと感じていたこともあり、その集合知のひとつの歯車になりたい、いちウイルス学者としてなんとかして役に立ちたい、という思いがふつふつと芽生え、それが後の「G2P-Japan」の発足につながるうねりへとつながっていったのだと思っている。
■結局「レピュテーション」がモノを言う 「プレプリント」と「SNS」がどのように役立ってきたのかには、このようなトリックがあったわけである。しかしこれらには、表裏一体となるリスクもある。例えばプレプリントは、「査読」という審査を経ていない。そのため、体裁さえ整っていていれば、どんなトンデモな結果でも、原則的にはそこに掲載されてしまうのである。 パンデミックの最初期には、「???」なデータを並べた上で、「新型コロナの起源はヘビである!」と結論づけたプレプリントが発表され、一時ツイッター(現X)でかなりバズった(非難されまくった)のを覚えている。 これはかなり極端な例だが、要は「プレプリントは審査をされていないので、その中身はかなり玉石混交である」というのが、プレプリントの最大の欠点であった。 それでは、「プレプリントをSNSで共有する」というシステムは、この欠点をどのようにして補い、洗練されていったのか? これはとても興味深いのだが、結局のところ、SNSユーザーたちが洗練され、知識を蓄え、誰かに強制されることもなく、自然な流れで、きちんとした情報を選別し、それだけを拡散するようになっていったのである。 つまり、パンデミックという有事の玉石混交の中で、SNSユーザーたちが自然に「レビュアー(査読者)」となり、正しい「玉」の情報には「いいね」を押してリツイートする、怪しい「石」の情報は無視する、あるいは非難する、というマスシステムが構築されていったのだ。