『蛇の道』黒沢清監督インタビュー「“復讐というシステム”だけがずっと続いている」
「映画ですから、映画でしか経験できない何かをやりたい」
復讐を決行しようとする者たちがいる。ターゲットは捕えられ、拷問され、仇討ちは達成されるかに見えるが、さらなるターゲットが出現し、復讐は止まることなく続いていく。決して終わることのないドラマを断ち切るように、クライマックスには魅力あふれる銃撃戦が描かれる。 かつて『ダゲレオタイプの女』が公開される際、黒沢監督は筆者のインタビューでこう語っている。 「頭の中では“フランスで撮影している”とわかってはいるんですが、実際の映像からはその場所の国籍など特定できないわけで、撮影しながら『これこそが映画の世界なんだ』という想いを密かに楽しみました。初心に戻るではないですけど、日本であれ、パリであれ、映画の普遍的な部分は信じていいんだと改めて感じられましたし、現代の東京によって隠されてしまっていた僕のむきだしの欲望や夢が、この映画で無意識に実現したのかもしれないです」 黒沢監督の“むきだしの欲望”のひとつが、映画における銃撃戦ではないだろうか。日本で銃撃戦を描くことと、どこでもない“映画の世界”で銃撃戦を描くことはまったく意味が違う。 「銃撃戦は日本ではまともに撮ることが難しい分野です。アメリカ映画などでは、いとも簡単に銃撃戦が起こりますし、自分でもVシネマなどで少しはやっていますけど、この映画では大規模ではないですが銃撃戦を最後の見せ場にもってきたいと最初から考えていました。 言葉で説明するのが本当に難しいんですけど、映画における銃撃戦は何であんなにも魅力的なんだろう、と。不謹慎かもしれませんが、あっという間に人間が死んでいく様が、ある動きと音と光をもって表現され、それが次々と起こっていく様は、本当にそんなことが起こったらそれは大変なことなんですが、映画というものを通して楽しむ際には観客の目を釘付けにする楽しさがある。映画的な魅力的に満ちあふれたものだと個人的には思っていました。 僕は本物の拳銃については何も知らないんですけど、映画に登場する小道具としての拳銃は、何でもない普通の状態から、いきなり抜いてバン!と撃つと、撃たれた相手が死んでしまうという、ものすごいドラマが突然、起こるわけです。何でもないかと思っていたら次の瞬間に突然、そこにいた人間が、殺し/殺される関係になる。あの極端にドラマチックな瞬間が映画として魅力的なんですかね。 『殺すぞ』と思わせる長くて大きい銃だと最初から殺意がわかってしまうので、それは別な感じになってしまうんですけど、ピストルは突然出現して、突然に撃つので、その差が極端に出るのです。『あの人は殺す気だったんだ』と突然にわかる。しかも刀と違ってかなりの距離があっても、相手と親密な関係を結ばない間に、そのようなことができてしまう。映画にとっては何とも魅力的な小道具なんです。僕と同じようなことを考えているのはおそらくデイヴィッド・クローネンバーグだと思います。 ですから、この映画でも銃撃戦をある程度は撮ることはできました。もちろん、ここでした話は自分の趣味的なものでもあるので、勝ち誇ったように言うことでも、大きな声で言うことでもないのですが」 改めて書いておくが、映画における銃撃戦と、現実の銃撃戦は別のものだ。本作では、映画でしか起こらない時空間の中で、現実にあり得るかわからないような復讐というシステムの継続と、銃撃戦が描かれる。それはどこの国の話でも、どの時代の話でもない。そこではピストルは相手を殺す道具であるのと同時に、映画的な装置として機能する。そこではロボット掃除機が画面を横切るだけで、圧倒的は恐ろしさと不気味さがわきあがってくるのだ。 「外国映画はフランスでしか撮ってませんから、他の国との比較はできないのですが、こちらの思い込みもあって、アメリカとかフランスに行けば、国籍に縛られない、映画でしか成立しない時空間があるのではなかろうかという幻想があります。それは、フランスにおいては外国人である僕だからできることで、フランス人ならここまで勝手なことはできないのかもしれません(笑)。 これは映画ですから、映画でしか経験できない何かをやりたいですし、観る方もそういうものを望んでいるだろうと信じてやるしかない、と思っています。“映画的な何か”があるから映画なのであって、それがいらないのであれば、映画そのものがいらなくなってしまう。幸いなことにまだ映画は存続していますので、映画は“映画的は何か”を描いて良いのだろうと思っています」 『蛇の道』 6月14日(金)公開 (C)2024 CINEFRANCE STUDIOS - KADOKAWA CORPORATION - TARANTULA