「藤竜也さんとの対峙はまさに“居合”でした」森山未來が語る「演じること」と「踊ること」
映画『大いなる不在』で俳優の役を演じた森山未來さん。表現すること、演じることについて、どのように考えているのでしょうか。藤竜也さんとの初共演についても、お聞きしました。(全2回の後篇。) 【画像】森山未來さん。
10年前のイスラエルでの滞在
――表現者としてさまざまなご活躍をされている森山さんですが、森山さんにとって「演じること」と「踊ること」は、どのようなものですか? 「演じる」も「踊る」もどちらも言葉、あるいは身体を使ったコミュニケーション手法ではありますが、「演じる」に関しては脚本であったり、セリフであったりというルールが必要です。つまり、バーバルな世界の中で共有できるロジカルな世界観が「演じる」ことの基本だと思っています。 一方、「踊る」は身体によって直感的に共有される言語です。日本だと能の表現、歌舞伎の舞、お祭りの踊りなど、儀礼的、あるいは形式的であったり、場所や目的によって違いはありますが、音も交えたノンバーバルなコミュニケーションだと考えます。 ――『大いなる不在』においては、「届ける」ということを最も大きな主題に設定したと近浦監督がおっしゃっていました。森山さんはご自身が演じた卓(たかし)を通じて、何を届けたいと思われましたか? 『大いなる不在』は、(近浦)啓さんがプロデューサーとして企画を立ち上げ、監督・脚本・編集を手がけた作品です。啓さんが創りたい物語や世界観があって、僕はそこにあくまで「俳優部」として参加している身なので、啓さんが描きたい世界を生み出すひとつのパートとして関わることを意識していたと思います。 これが、僕がプロデュースして何かをアウトプットするという場合であれば、僕が見せたい世界観や届けたい想いを表現するという意味合いは強まるのかもしれません。 でも、演劇を含めたパフォーマンスというものは、僕一人で成立するものではなく、照明や舞台監督、音響、衣装などさまざまな役割の方々が関わりながら総合芸術として作品が形作られていくという側面があります。だから、同じ作品でもその日、その場によって伝わるものは変わります。 それに、映画やパフォーマンスがどう観られるかというのは、結局観る人によって違ってきますから、100人観てくださる方がいるなら100通りの届き方になっていいんじゃないかと僕は思っています。 ――そう思うようになったのは、10年前のイスラエルでの滞在が影響しているのでしょうか。 あの体験は、1年間日本以外の国に身を置くことで、自分自身、そして日本人としてのアイデンティティに向き合う時間だったと思います。イスラエルだけでなく、ヨーロッパ諸国を回ってクリエーションを展開するなかで、アーティストとしてどうありたいかということを再認識できました。