「鬼」という概念がどのように日本全国に広まったのか?
「鬼」という概念がどのように日本全国に広まったのか? その系譜をたどる。 ■仏教の普及とともに鬼が日本全土に広まる 『日本書紀』には「邪しき神」を「邪しき鬼」とする。これは「おに」ではなく「カミ」や「モノ」と読んだ。つまり目に見えない、得体の知れぬ恐ろしいモノだったが、これがなぜ「オニ」と訓読みされ、漢字の「鬼」の字があてられたのかは、今もって決定的な説がない。ただ、中国語の鬼(グゥイ)が、日本でいう「幽霊」に近いものであるというのは、鬼の成り立ちを考えるうえで重要だ。 インドから中国を経由して日本にもたらされた仏教も「鬼」を重く扱う。サンスクリット語のプレータの訳語に「餓鬼」や「鬼」の字があてられる。古代インドにおいて餓鬼の物語を綴った『餓鬼事経(がきじきょう)』では、六道(ろくどう)のなかの餓鬼道にヤクシャ(夜叉)、ラークシャサ(羅刹)など凶暴な精霊がいるとする。『往生要集(おうじょうようしゅう)』では牛の頭をした牛頭(ごず)・馬の頭をした馬頭(めず)という鬼や、羅刹(らせつ)という鬼が地獄の獄卒(ごくそつ)として描かれる。 平安時代末期の公卿(くぎょう)・藤原頼長(ふじわらよりなが)は日記『台記』に鳥羽法皇が病にかかったのは祖父・白河法皇の「鬼」に憑かれたものであると記した。そのように日本でも平安貴族などの教養人が、本来のものと思われる死霊の意味で「鬼」という言葉を用いていた例がある。 鬼の概念の変遷にともない、文献に描かれる鬼の姿や性質も変容していった。平安時代の『伊勢物語』や『今昔物語集』などにあらわれる「鬼」は、すべて目に見えない存在として描かれている。それが鎌倉時代の『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』になると、伊豆の離島に漂着した巨大で異様な姿の異人を「鬼」と記すようになる。 『百鬼夜行絵巻』にはさまざまな姿の鬼が描かれるが、室町時代になると鬼の図像化が進み、今日の鬼のイメージの原型ともいえるような鬼の姿が見られるようになる。 鬼たちがすむ鬼ヶ島といえば昔話の「桃太郎」が有名だが、14世紀に成立した『保元物語』に鬼島が出てくる。そこに源為朝(ためとも)が上陸すると、図体のでかい鬼の子孫と出会う。彼らは昔あったという隠蓑(かくれみの)・隠笠・浮履(うき)といった宝物を失くし、神通力も失っている。同じ14世紀には酒呑童子が登場する『大江山絵詞』も制作された。目に見えない存在であったものが、室町時代あたりから多様化し、また擬人化も進んでいったことが想像できよう。 修二会(しゅにえ)や節分で鬼を追い払う豆まきの習慣は中国の追儺(ついな)を起源とする行事である。子どもの遊び「鬼ごっこ」、狂言「鬼瓦」などと呼び、「鬼に金棒」「鬼が笑う」という言葉もある。さまざまな姿形で、鬼は庶民の生活に深く浸透しているのである。 監修・文 八木透/上永哲矢 歴史人2023年6月号「鬼と呪術の日本史」より
歴史人編集部