「遊廓や売春を肯定するのか!」の声に女性研究者はどう答えるのか
苦しんだ女性たちへの最大の敬意を示すために
かくいう私にとっても、遊廓をどう捉え考えていくかは、なかなか答えの出ない課題です。つらつらと偉そうなことも書きましたが、そもそも私自身、はじめに遊廓に関心をもったのは、幕末の志士に憧れがあったという非常にミーハーな理由です。とりわけ司馬遼太郎の描く幕末の世界は魅力的で、高杉晋作が唄ったという都々逸(どどいつ)「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」を『世に棲む日日』で知った私は、それがいたく心に刺さってしまいました。 この都々逸は、芸妓と朝になったら別れなければならない悲哀を唄ったもの。ですから、私は遊廓や遊里の「切なくも美しい」側面に惹かれたのでしょう。いまもそうした気持ちが消えた訳ではありません。ただ、そうした気持ちがすべてでないということを誤解なく伝えるのはなかなか難しく、研究のきっかけを話すときはどうしても別の理由を用意しがちです。 決してひとことでは言い表せない遊廓というものを、どう記述し、どう伝えるか。それは、これまで遊廓に向き合ってきた多くのひとにとっても頭を悩ませる種だったように思います。遊廓をいかに位置づけるかは、その時々の時代背景にかなり左右されてきたとも考えています。 遊廓をめぐる考察は遡れば江戸時代から存在し、研究としては大正末~昭和のはじめ頃から本格化していきます。当時は遊廓が現実に存在したうえ、明治後半から特に盛んになった廃娼運動という政治・社会問題が背後に横たわっていました。「江戸学」の開祖として著名な三田村鳶魚(えんぎょ)も、そうした問題に深く注意を払いながら吉原研究を進めていたことが指摘されています。 一方で昭和30年代以降、江戸時代の遊廓が文化の発信地になったこと、もしくは客にとっての「喜見城(きけんじょう)」(楽園)であったと強調するような研究が、諸分野において姿をみせるようになっていきます。それぞれの論者が何を考えていたかは必ずしもわかりませんが、やはり昭和31年(1956)に売春防止法が制定され、遊廓が「過去」のものになったことと無関係ではなかったように思います。 80年代にはバブル経済を背景とした江戸ブームも生じ、江戸の明るい側面に注視した研究が隆盛となりました。「江戸幻想」、すなわち「近世日本に関する妄想じみた思い込み」さえ生じたという指摘もなされています(小谷野敦『江戸幻想批判』新曜社、2008)。書く方が意図せずとも、受け止める世間の側にそういう雰囲気もあったのでしょう。 もちろん、江戸をやたらと持ち上げるような研究に対しては、その後さまざまに反証がなされました。遊廓をめぐっても、近年では、吉原という町の具体的な構造や、いかに女性たちが支配されていたか等について、精緻(せいち)な研究が蓄積されています。「文化の発信地」「楽園」では済まされない姿が詳(つまび)らかにされている。それが、現在の遊廓研究の潮流です。 逆からみれば、いまにおいて遊廓の「光」の側面に注目することはかなり難しくなってきているように思います。そしてそれは研究の世界においてはもちろん、一般の方が目にすることの多い映画やドラマ、雑誌や漫画・小説などでもそうです。いうまでもなく美術館や博物館の展示も同様で、最近も吉原を前向きに扱った展示のプロモーションが大変な嵐を生み出しました。男女共同参画、女性活躍推進、LGBTQ+……そうした議論が進むなか、遊廓に限らず、あらゆる「性」をめぐる表現は慎重さが求められています。 誤解を恐れずにいえば、私はそうした風潮を好ましく思う一方、非常に厄介(やっかい)だとも思っています。「うるさくいう人がいて面倒だから」と、遊廓や遊女を取り上げることをそもそも放棄させてしまいかねないからです。これまでも遊廓が「なかった」ことにされるケースはよくあり、とりわけ地域の歴史を紹介する展示や県史・市史などではそれが顕著(けんちょ)でした。最近はSNSの炎上の威力が凄まじいことなどもあって、遊廓や遊女はますます取り上げにくい話題になっているように感じます。 遊廓は、人身売買という、今からみれば重大な人権侵害がおこなわれていた場所です。親兄弟の都合で身を売られ、ろくに休みも取れず、病にかかればお払い箱。憂さ晴らしのために我儘(わがまま)に振舞う客も多く、甚だしくは暴力を振るわれ、殺される。ひどい楼主に苦しめられ、逃げ出すために放火する遊女もいたほどです。 しかし、そんな暗い翳(かげ)を背負った場所である一方で、遊廓が当時における文化の発信地であり、江戸文化の中である地位を占めていたことは、消しようのない事実です。大衆小説の祖とされる井原西鶴の一作目が遊廓を舞台とした『好色一代男』だったように、江戸時代の出版はもちろん、歌舞伎や浄瑠璃といった芸能、衣服・髪型といった当時の文化を語るにあたり、遊廓の存在は無くてはならないものです。 そして何よりも大切なのは、不遇ながらも命の焔(ほのお)を燃やしていた遊女たちが、そこに生きていたということです。彼女たちは「文化」を創るためでもなく、「人権侵害」の酷さを訴えるためでもなく、ただただそこで懸命に日々を過ごしていました。 理念を先に立てて、遊廓が善いとか悪いとか断じることは簡単です。触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに、遊廓を「なかった」ことにするのも容易でしょう。が、その前に色眼鏡をはずして、遊廓に生きた人々の一日一日をみる。そうしてそこから何かを掬(すく)い取っていくことが、今を生きる私たちにとって大切なことであり、かつて遊廓で生き、苦しんだ女性たちへの、最大限の敬意ではないかと思っています。 高木まどか 東京都生まれ。成城大学大学院文学研究科修了、博士(文学)。成城大学非常勤講師、徳川林政史研究所非常勤研究員、東京都公文書館専門員。著書に『近世の遊廓と客 遊女評判記にみる作法と慣習』がある。 協力:新潮社 新潮社 Book Bang編集部 新潮社
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