JR東日本にも運輸省にもナイショで…品川に「新幹線駅」を作りたかった葛西敬之のハチャメチャすぎる「行動」
駅の用地がない
課題は駅の用地だ。従来の品川駅はJR東日本が運行している山手線のそれである。ここでもJR東日本の松田とぶつかった。黒野はまるで葛西の意のままに動かされているような印象で、こう苦笑する。 「松田さんにしても寝耳に水で、とつぜん新聞にそんな話が出るのだから頭にきたでしょうね。だから、これも私が間に入って何回も何回も議論しました。従来、東京駅に集中していた新幹線機能が分散されれば、新たな品川駅開発の投資需要を呼び、東にとってもプラスになる。『ここは大所高所の見地で考えてほしい』と松田さんを散々説得し、やっと話がまとまりました。それでJR東が事業団とともに土地の一部を譲渡したわけです」 意外にもこの交渉には、政治介入がなかったと黒野は話した。松田は中曽根をはじめとした大物議員とも近かった。その一方で、松田もまた国鉄時代の反省から安易に国会議員を頼ることはなかったという。 新幹線品川駅の建設工事は97年に始まり、03年に開業にこぎつけた。土地の譲渡交渉に加え、新幹線を走らせながら新駅をつくるという難工事のため、足掛け7年と時間がかかった。ちなみにもともと土地が足りなかったため、JR東海の品川本社は新幹線の線路の上に建設されていて、今も低層階では新幹線の走行音が鳴り響いている。 葛西は新幹線品川駅の開業を境に、すべての列車を時速270キロで運転するようにした。それまでひかりが主体だったダイヤをのぞみ中心に切り替え、運行本数も一挙に増やした。そうして浜松町や品川駅から羽田空港に向かっていた飛行機の乗客が新幹線に乗るようになり、東京~大阪2時間半の需要がますます膨らんだ。00年の1日あたり269本の新幹線が04年には290本となり、さらに05年には311本と急増していく。新幹線品川駅の開業はまさに葛西の狙いが的中したといえる。そして経営者としての評価が高まっていった。 葛西敬之は品川駅開業の明くる04年6月、社長から会長になる。といっても経営の第一線から退いたわけではない。もちろん代表権を握ったままだ。それまで財界活動をほとんどしなかった葛西は、政治ともあまりかかわりがなかった。が、このあたりから政府委員として霞が関の高級官僚たちとの交流が盛んになり、安倍晋三をはじめとした自民党の大物政治家と関係を深めていく。運輸省で鉄道局次長や航空局長を歴任して事務次官となった黒野は何かと葛西の相談に乗ってきた。台湾新幹線の売り込みにも立ち会っている。 『「技術を盗まれるからダメだ」…中国の国家主席の要望をも突っぱねる男・葛西敬之が「リニア」に込めた思い』へ続く
森 功(ジャーナリスト)