「軍が来たら書けないぞ」 鍵かけ、速報と号外対応した韓国・光州の新聞 「報道を統制」緊迫の社内
「耐えがたい事情により、知らせるべき義務すら果たせない自責と自省」。光州日報の前身、全南日報は光州事件発生の3日後から12日間、戒厳令により新聞発行ができなかった。再開した日の朝刊には、悔しさと反省の思いを込めた社告が掲載された。 その後も検閲によって、紙面の一部が空白のまま発行されることが続いた。光州日報には、当時の記者たちが社長に提出した辞表が残っている。「人が犬のように引っ張られていき、死んでいくのをはっきり見た。だが新聞には、1行も載せられなかった」 今回の戒厳令の直後、光州事件の取材に取り組んだ当時の記者から、崔編集局長のスマホに「光州はこれ以上の犠牲を出してはいけない」とのメッセージが届いた。 同社には当時を知る記者はほぼ残っていないが、崔編集局長はその悔しさ、恐ろしさ、そしてそれを乗り越え、社会に伝えようという思いは後輩たちに引き継がれていると感じている。 光州事件につながる、全斗煥(チョンドファン)元大統領による軍事クーデターの開始から45年となる12日。クリスマスのイルミネーションが光る光州の駅前広場には市民が集まり、尹氏に対する抗議の声を上げていた。 参加していた50代男性はこう話す。「光州には権力によって多くの市民の血が流れたトラウマがある。今回の戒厳令から眠れない日が続いている。暴走を決して許してはいけない」
【光州事件と報道統制】1980年5月18日から、韓国南西部・光州で、戒厳令下の軍が民主化を求める市民らに発砲するなどした事件。約10日間続き、犠牲者は160人以上とされる。87年に実現した韓国民主化の原点。戒厳令による報道統制で、新聞や放送局などは検閲を受けた。「光州広域市5・18民主化運動記録館」によると、当時検閲を受けた記事は約1万1600件、このうち削除は約1700件という。
西日本新聞