練習は競馬場、携帯代は10万円超え 欧州での洗礼…決まらぬ移籍先に募ったイライラ【インタビュー】
いつ入団テストのオファーがあるか分からないため、ホテルを転々して生活
オスナブリュックを離れた太田氏はル・マンFCで松井大輔の通訳だった人物に招かれ、再びフランスへ。今度はパリから北へ車で1時間ほどのところにある街、シャンティイで過ごすことになった。「いまだにすごく覚えていて、すごくのどかな、自分が生まれ育った環境に似たような街でした」。週に2、3回、フランス4部FCコンピエーニュの練習に参加。それ以外はシャンティイ競馬場の広場で1人で走ったり、ボールを蹴ったりして、懸命にコンディションを維持しようとしていた。 欧州滞在も4か月近くになり、徐々に金銭的にも苦しくなってきていた。いつ入団テストのオファーが届くか分からないため、ホテルを長期間押さえることができず。2、3泊してはインターネットで新たな宿泊先を予約し、大量の荷物を抱えて移動するの繰り返し。必然的に宿泊代は高額になり、日本との連絡で携帯電話の代金は月10万円を超えていた。それまでの貯金を切り崩して生活を続けていたが、それも日に日に減っていっていた。 練習量は決して十分ではなく、カロリーの高いヨーロッパの食事で体型にも変化が出てきていた。「どんどん、ブクブクと太っていってました。日本に帰った時には、行く前に比べて5キロくらい増えていましたから。ジュビロの時はガリガリだったんですよ。ただ、海外に行って、周りの選手がデカいから、自分も大きくしなきゃいけないって思って食べちゃったんですよね」。 実は、練習に参加していたFCコンピエーニュは周囲に「ウチでやる気はないか?」と打診をしていたという。いまでは欧州各国の3部や4部のクラブでプレーする日本人が当たり前になっているが、当時はそんな選手は稀。「その時、そういう考えはなかったんです。どれだけ苦しくても1部でやりたい、としか考えていなかったですね。いま思えば、むちゃくちゃもったいなかった。勘違いというか、思い上がりみたいなのがあったんでしょうね」。太田氏自身も当然、1部クラブでのプレーを目指しており、その打診が直接、太田氏の耳に入ることはなかった。 そうこうしているうちにシェンゲン協定による圏内滞在の期限が迫ってきていた。代理人からの指示もあって、フランスを離れて再びイギリスへ。ヨーロッパ滞在は4か月を過ぎ、なかなかチームが決まらず、ストレスも溜まってきていた。代理人や関係者とぶつかることも増えていた。そんな状況でロンドンに訪れたのは、4か月間、離れ離れで暮らしていた、結婚したばかりの妻だった。(次回に続く) [プロフィール] 太田吉彰(おおた・よしあき)/1983年6月11日生まれ、静岡県出身。ジュビロ磐田ユース―磐田―仙台―磐田。J1通算310試合36得点、J2通算39試合4得点。トップ下やFW、サイドハーフなど攻撃的なポジションをマルチにこなす鉄人として活躍した。2007年にはイビチャ・オシム監督が指揮する日本代表にも選出。2019年限りで現役を引退し、現在はサッカー指導者として子どもたちに自身の経験を伝える活動をしている。
福谷佑介 / Yusuke Fukutani