追悼 文楽人形遣い・吉田簑助さん 人形愛した不屈の精神 客員特別記者・亀岡典子
昭和から令和の文楽界を牽引した人形遣いで、人間国宝、文化功労者の吉田簑助(本名・平尾勝義)が11月7日、亡くなった。 【写真】文楽人形遣いの吉田簑助さん 一枚のモノクロ写真がある。 昭和を代表する写真家、土門拳(どもん・けん)が、少年時代の吉田簑助を撮った一葉だ。古い写真の背景はどこかの劇場の舞台裏だろうか、薄暗い空間に文楽人形が一体ぶら下がり、その下に黒衣姿の少年がぽつんと座っている。幼い顔からは人形遣いになる宿命のようなものが感じられた。簑助は人形遣いの申し子であった。 生涯、「花」のある人形遣いとして人々を魅了し続けた。文楽のヒロインのほとんどを勤め、中でも遊女やお姫さまなど女方のあでやかな人形を遣うとき、その色香は同性のため息を誘うほどであった。 6歳で父(二代目桐竹紋太郎)の背を追うように人形遣いになった。入門したのは名人とうたわれた三代目吉田文五郎。戦後、二代目桐竹紋十郎の門下に入る。若き日、華やかな女方を得意とした2人の名人の教えを受けたことは簑助に多大な影響を与えたに違いない。 当たり役は数えきれない。恋のために親を裏切る「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」の八重垣姫では後ろ姿だけで恋しい勝頼への思いを描き出し、「酒屋」では夫に顧みられない妻、お園のけなげな心情を切々と表現した。「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」のお三輪では、嫉妬が極限に達したときの「疑着の相」が本来表情のないはずの人形の顔に浮かんだのが見えた。 忘れられないのは、初代吉田玉男との名コンビだ。中でも「曽根崎心中」のお初では、白い小さな足を徳兵衛の喉に押し当て、心中の決意を確認し合ったときのエロスとタナトスが入り交じった表情など、文楽人形が表現し得る最高の魂の輝きを見せてくれたものである。 1997(平成9)年のパリ公演の際、フランスの新聞に「人形の白い顔を涙がこぼれたのを見た気がした」という劇評が載ったが、それほどに簑助の人形は国や民族を超えて人の心を動かす力を持っていた。簑助の人形をきっかけに文楽のとりこになった人のなんと多かったことか。 かつてインタビュー取材した折。写真撮影で、手に持ってもらった女方の人形の顔を見つめたときのまなざしに胸をつかれたことを思い出す。恋人をいとおしく見つめるような目だったからだ。「人形を遣うことは私の人生のすべて」。そのときの言葉は忘れられない。