追悼 文楽人形遣い・吉田簑助さん 人形愛した不屈の精神 客員特別記者・亀岡典子
それほどに文楽人形を愛した簑助だったが、平成10年の大阪公演中、脳出血で倒れる。一時は右半身にまひが残り、言葉も不自由になった。「もう舞台に立てないのではないか」。絶望したこともあったという。だが、簑助は諦めなかった。「足遣いでいいから、もう一度人形遣いに戻りたい」。その一念で苦しいリハビリを乗り越え、翌年、舞台復帰を果たす。「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」で、簑助の遣うお半が信濃屋ののれん口から姿を現したとき、劇中であるにもかかわらず、拍手は長く鳴りやまなかった。
若いときからスターだった簑助だが、人間国宝になっても年齢を重ねても進化を続けた。「人形遣いはどんな役でもやるべき」という信念のもと、70歳で初めて「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」の小悪党、いがみの権太に挑んだ。簑助のイメージとかけ離れた役どころだったが、「だからこそやりたい、面白いと思った。70代の挑戦です」と目を輝かせていたことを思い出す。
令和3年4月、簑助は突然、引退を発表した。最後の舞台は近松門左衛門の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」のヒロイン、錦祥女(きんしょうじょ)。簑助は最後まで華やかな記憶を私たちに残して自ら舞台を去ったのである。
今月12日の葬儀の日、多くの参列者に頭を下げて挨拶する一門の弟子たちの姿があった。筆頭弟子の桐竹勘十郎をはじめ孫弟子も入れて15人。実に人形遣い全体の3分の1以上である。それだけ多くの弟子を育て上げた簑助。その芸や精神は彼らに受け継がれていく。(亀岡典子)