中村七之助 父・勘三郎さん急逝からの12年を語る「中村屋は、父だけでなく大切な人を亡くしながらも、一生懸命努力してきた。この調子で突き進んでいければ」
希代の名優と称された歌舞伎俳優・十八世中村勘三郎さんが急逝したのは、2012年の12月のこと。十三回忌にあたる2024年は、故人を偲ぶ追善興行が全国で毎月のように行われました。 【写真】中村七之助インタビューの写真を見る 勘三郎さんのふたりの息子、中村勘九郎さんと中村七之助さんをはじめとした中村屋ファミリーにとっても、節目の年となりました。 その一年に密着取材を敢行したドキュメンタリー『中村屋ファミリー』から、七之助さんのインタビューが到着。その一部を紹介します。
<中村七之助 インタビュー>
――2月、中村勘三郎さんの十三回忌追善興行「猿若祭二月大歌舞伎」の「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」で、七之助さんは八ツ橋を演じました。 この作品、このお役は、私がインタビューなどで「今やりたいお役は何ですか?」と質問されたときに、必ずひとつ目に挙げていたものでした。 父の次郎左衛門、そして(坂東)玉三郎さまの八ツ橋で、私も何度か出演させていただきましたけれども、それを諸先輩方のVTRだったりも見て、ずっと「ああ、この役はいいお役だな。いつかやってみたいな」と思っていたお役を、十三回忌追善で、しかも(片岡)仁左衛門のおじさまも、(尾上)松緑のお兄さまも、みなさま出てくださいまして。 それを歌舞伎座でやらせていただけるというのが、自分のこと(役を勤められること)よりもありがたいなと思いました。 初日開いてからかな。舞台稽古かな。玉三郎のおじさまに「大変だろ」と言われたときに、「それよりも、うれしいです」って純粋に答えたんです。普通なら「はい、大変です」と言うんですけれども、重圧よりも楽しさが、また兄とできる、歌舞伎座でやれるといううれしさが勝ったお役でした。 憧れの、というか、子どもが戦隊モノのヒーローベルトを買ってもらったような気持ちといいますか。衣装を着たときに「うわ、八ツ橋の衣装だ。ああ、縁切りの衣装だ」と。 あの歌舞伎座が、もう誰も息をしてはいけないような張り詰めた緊張感、その中の空気というのは久々な感覚がいたしまして、思い返してみると、ありがたい1ヵ月で。あんなに早く終わってしまったと感じた月はないんじゃないですかね。 兄と「もう終わっちゃうね。あと何日だね」って数えていたというくらいの2月でした。 ――勘三郎さんの十三回忌となった2024年。改めて、この12年の中村屋を振り返ると? 父が57歳で亡くなって、僕も今年41になりまして。 僕の周りにも、父が亡くなった年齢と同い年くらいの友人がいるんですよ。みなさん、どうかわからないけど、57歳ってすごく落ち着いてる、もう、すごく年上というイメージ(があった)。 それが今、お父さんが亡くなった年齢と同い年だよっていう人を見ると、めちゃめちゃ若いんです。だから「この年で亡くなったのか」って。 自分も、父が他界した年に近づいてきて、知り合いもその年齢になってみると「こりゃ、早えわ」って、つくづく思います。 父と同い年の人たちは、もう70歳なんですね。70の父なんて想像できてないし。でも、その70の人たちも、あまり変わってないんですよ――というので、何かちょっと混乱してる。 「ああ、57歳は若い」って、みなさま言うけど、その当時はそんなふうには思わなくて。今、年齢を重ねると、改めて「えっ?」って思うんです。 この12年、中村屋は、父だけでなく大切な人を亡くしながらも、みんな一生懸命努力して、(中村)鶴松をはじめ、いろんなお弟子さんだったり、(勘九郎さんの長男・中村)勘太郎、(勘九郎さんの次男・中村)長三郎が大きくなって、いろんな役をやらせていただけるようになってきました。 未来は明るいと思いますし、中村屋はずっと同じ方向を見ていけてるんじゃないかなと、僕なりに思っています。 兄が言ってましたけど、中村屋は本当に仲が良い。スタッフすべて、中村屋一丸となって進んできていると思うので、この調子で、どんどんどんどんと突き進んでいければなと思っております。 聞き手:花枝祐樹(番組ディレクター)
めざましmedia編集部