なぜ、能の大成者・世阿弥は「不遇の末路」をたどったのか? 将軍・足利義教に嫌われた理由とは
世阿弥といえば、能楽の大成者として、多くの人が知るところだろう。しかし、彼が晩年に、将軍・足利義教の命で佐渡島に配流されていたことに目を向ける人は少ないのではないだろうか。なぜ、義教は世阿弥を流罪にしたのか? 美少年だった世阿弥は義満などからも寵愛を受けていたが、そこからどのように「転落」していったのだろうか? ■なぜ、足利義教は「流罪」を命じたのか? 能楽といえば、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている、日本の伝統芸能である。世阿弥がその大成者であるという辺りも、多くの方の知るところだろう。しかし、彼がどんな生涯を送ったかはよく知らないという方が多いのではないだろうか? 世阿弥の生涯において、何よりも謎めいているのが、晩年の動向である。72歳のとき、彼は佐渡島へと流罪に処せられてる。能楽の元となった猿楽を極め、その大成者として持て囃されたかの巨人が、あろうことか罪人として引っ立てられていったのだ。いったい、何をしたというのか? 実のところ、はっきりとした罪状さえ明記されることはなかった。 時の支配者は、室町幕府6代将軍・足利義教。将軍自ら配流の命を下しているから、何らかの思惑あってのことに違いない。しかし、何やらキナ臭い匂いを感じ取るのは、筆者だけではあるまい。本記事では、その秘密に迫りたいと思う。 ■義満からも寵愛を受けた美少年・世阿弥 まずは世阿弥がどのような人物であったのかから、見ていくことにしよう。彼が生まれたのは、1363年前後(正確には不明)のことである。父は、大和猿楽結城座の猿楽師であった観阿弥で、伊賀の豪族・服部氏の一員(秦氏とも通じるか)だったとか。その母は楠木正成の姉あるいは妹とみられることもある。 この母、つまり世阿弥にとっての祖母が南朝方に与していたということが、世阿弥及びその長男・元雅に災いをもたらすことになりそうだが、その件に関しては、後ほど詳しく見ていくことにしたい。 父・観阿弥が、当時12歳になったばかりの世阿弥(幼名・鬼夜叉)を伴って、新熊野神社(京都市東山区)で猿楽を披露したことが、この親子にとっての躍進の始まりであった。将軍・義満が観覧していたからである。 義満は、観阿弥の見事な舞はもちろんのこと、世阿弥の美童ぶりに目を細めた。当時、男色は特別なことではない。言い方は悪いが、当時の猿楽師たちにとって「売春」が避けて通れない習慣であったことを、『秘花』を著した瀬戸内寂聴氏が指摘している。 世阿弥は、さらに摂政・二条良基からも寵愛を得る。将軍家ばかりか貴族層にも贔屓にされ、庇護される存在となったのだ。 ところが、その躍進は、いつまでも続くものではなかった。