トランプ氏で復活?「日米貿易摩擦」とは 坂東太郎のよく分かる時事用語
特に激しかった「自動車」摩擦
こうした状況を「1980年代の日米貿易摩擦に似ている」と指摘する声が多くあります。戦後復興を成し遂げた日本は「神武景気」(1954年~57年)「岩戸景気」(58年~61年)「オリンピック景気」(62年~64年)「いざなぎ景気」(65年~70年)と立て続けに年10%を超えるような経済成長を続けていました。いわゆる「高度経済成長」です。主要な輸出先はアメリカで対日貿易赤字に米国内から批判が噴出しました。 最初に貿易摩擦が起きたのは「繊維」でした。まず綿製品が、次いで毛製品、化学合成繊維がやり玉に挙がります。綿製品は日本が自主規制し、毛・化学繊維は1972年の「日米繊維協定」で再び自主規制に応じ、打撃を受けるであろう国内業界へ国が救済融資をするという形で一応収まりました。 1970年代後半からは断続的に「牛肉・オレンジ交渉」がなされます。当初は最大どれだけの輸入(アメリカからは輸出)をするといった目標を決めました。次にさらなる拡大を求めたアメリカの要求を飲みました。最後は輸入割当自体をなくして関税へ置き換え、徐々に減らしていくというところで合意をみたのです。 そして「自動車」です。70年代から90年代にかけて日本車の対米輸出が急激に伸びて社会問題化しました。とりあえず台数を定めた輸出自主規制で対応します。完成車だけでなく部品も大きな課題として浮上し、「自主的な取り組み」として、アメリカにある日本車の工場でアメリカ製の部品をより多く使ったり、部品そのものを日本が一層輸入するとしました。日本市場が閉鎖的という指摘に対しては規制緩和を進めると応じたのです。 自動車はアメリカの象徴的な巨大産業で「GM」「フォード」「クライスラー」は「ビッグ3」と呼ばれ、大排気量エンジンのいわゆる「アメ車」で繁栄していました。70年代の石油危機で日本製の小型車が市場を席巻し、一転して窮地に立たされます。雇用を奪われたと考えた労働者の怒りは日本車へ向けられ、ハンマーで叩きつぶすニュース映像が当時話題となりました。