読売主筆・渡邉恒雄氏の墓石に刻まれた「“親友”中曽根康弘元首相が書いた一文」とは?《写真あり》
飲み会よりも読書会
1956年に最初に中曽根さんと会った時のことは今も鮮明に覚えています。当時、初代の科学技術庁長官に就任したばかりで、原子力委員会の委員長もしていた正力松太郎さんに「中曽根君に毎日会いたまえ」と言われて、会いに行ったのです。僕は当時ヒラ記者で、政治部長の命で読売新聞の社主でもあった正力さんのところに頻繁に出入りし、いろいろ情報をもらっていました。 正力さんと中曽根さんを結びつけたのは原子力の平和利用でした。正力さんは公職追放中からそれについて考えていて、読売新聞でも原子力の平和利用をテーマに「ついに太陽をとらえた」という連載キャンペーンをやっていた。一方、中曽根さんはもともと野党で、最初は民主党で改進党などを経て、保守合同の時に自民党と合併するまで政務次官も常任委員長も縁がなかった。しかしながら彼は原子力について勉強したんだ。改進党時代にハーバード大学の夏期セミナーに行く途中、アメリカの原子力産業の勃興を見た。そして帰国後、原子力の平和利用について考えるようになった。そこを正力さんが自分の後継者として見込んだんだな。 ただ当初、僕は中曽根さんとは肌が合わないと思っていた。スタンドプレーが多く、「憲法改正の歌」なんか作っていたので、タカ派のイメージがあった。しかし実際に会ってみると、そのイメージは覆された。非常に謙虚で、しかも質素で勉強家だった。 ※本記事の全文(約1万字)は「文藝春秋 電子版」でご覧ください(渡辺恒雄「 わが友、中曽根康弘・元総理との60年 」)。全文では下記の内容をお読みいただけます。 ・ 大野伴睦に入閣を依頼する ・裏切りの「白さも白し富士の白雪……」 ・「風見鶏でいいじゃないか」 ・総理をあきらめた瞬間、気持ちを切り替えられる ・田中派にポストを握られても腐らない ・政局を生き抜いた一代の傑物 ・「ベルサイユ宮殿のような家」が3K
渡邉 恒雄/文藝春秋 2020年2月号