『オッペンハイマー』:被爆者イメージと向き合えなかった「加害者」
<ヒロシマ・ナガサキの惨状が描かれていないなど批判もあったが、これは紛れもない反核映画だ>*若干のネタバレあり
今年のアカデミー賞で、作品賞など7賞を獲得したクリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』が今年3月にようやく日本公開された。「原爆の父」とも呼ばれるアメリカの物理学者オッペンハイマーの半生を描いたこの作品は、被爆国である日本では特に政治的な議論の対象になったこともあり、公開が大幅に遅れていた。【藤崎剛人(ブロガー、ドイツ思想史)】 【写真】ネットを賑わす『バービー』と『オッペンハイマー』コラージュの数々 キノコ雲のミームも... そのような事情から、この映画は原爆投下についてのアメリカ側の弁明にすぎないのではないかという先入観を持っていたが、鑑賞してみると、それとは異なる印象を抱くことになった。 ■オッペンハイマーの視点を中心に描いた反核映画 結論から先に言えば、この映画はクリストファー・ノーラン監督が、オッペンハイマーという人物の視点を通して、アメリカにおける反核兵器のリアリティを描いた作品だといえよう。確かに事前情報通り、ヒロシマ・ナガサキの惨状は描かれていなかった。日本ではその点を批判する人もいる。しかしこの映画はむしろ、原子爆弾の惨状が直接的に描かれなかったことにこそ、演出上の意図があるのではないか。 というのも、この映画は原爆についての記録映画ではなく、オッペンハイマーという人物についての映画だからだ。全編を通して、オッペンハイマーの主観を中心に一人称的に構成され、彼の主観が介在しない場面はモノクロになる。つまり視点の違いが厳密に区別されている。そしてカラーのシーン、つまりオッペンハイマーの主観的な場面では、抽象的な心理世界や白昼夢の演出があり、オッペンハイマーという人物の心理を強く反映した描かれ方になっている。作品中でフロイトやユングといった精神分析家について言及されているのは偶然ではない。2010年の映画『インセプション』など、精神分析的な理論をもとにした世界観はノーラン監督の得意とするところだ。
■抑圧された被爆者
オッペンハイマーは、原爆の開発には積極的だが、一方で水爆の開発には消極的だったと作中で描かれる。この変化について、作中で問われるシーンがあるが、オッペンハイマーは答えをはぐらかす。作中後半の「解決編」でも、それについて明示的な解答は与えられず、永遠に謎のままになっている。 しかし、その理由は実は明らかになっている。被爆者である。オッペンハイマーがヒロシマ・ナガサキの惨状を後日、映像によって目の当たりにするシーンがある。映画ではそのシーンは、彼が被爆者の映像を見る場面として表現されるが、映像そのものは決して映ることはない。だが、被爆者の映像が映らないことこそ、オッペンハイマーにとって原爆の被害者のイメージが、いかに心理的に抑圧されているのか、ということの暗示となっているのではないか。被爆者の存在はオッペンハイマーに対して明かに影響を与えているのだが、それは作中ではただ仄めかされるだけで、ほぼ語られることはないのだ。 ■原爆によって変貌する世界 原爆は単なる兵器ではなく、世界を変貌させる兵器だ。それは原爆によるとてつもない被害を前提としており、オッペンハイマーは被爆者の映像を見る前から、そのことを知っていた。原爆が日本に投下され、戦争が終わったことを喜ぶ人たちの前に立って、オッペンハイマーはもはや正常に世の中を見ることができない。彼はスタンティングオベーションをする観衆の中に、全身が焼け爛れる被爆者の幻影をみる。祝宴で飲みすぎて吐いている人に、原爆症の患者をみる。 もちろん、オッペンハイマーはその時点ではそれらのリアルを目の当たりにしていない。しかし彼は人類に火を与えたギリシャ神話の神プロメテウスに喩えられている。プロメテウスは「先んじて知る者」という意味だ。原爆が存在する世界とは、何らかのきっかけがあれば、世界が瞬時に白く焼き尽くされる世界のことであり、オッペンハイマーはそれを先んじて理解しているのだ。