【甲子園100年物語(3)】香櫨園の成功体験が甲子園へ 野球は観客を呼ぶ
1910年に突貫工事で造られた香櫨園の球場は、フェンスやスタンドがなく、グラウンドには傾斜もある…。それでも、こけら落としの早大―シカゴ大の初日に3万人の観客が詰めかけたという。 関西では野球を知る人が少なかった。マイナースポーツだったのに、なぜそれほど集客できたのか。大阪毎日新聞の大宣伝が効果的だった。大阪に到着した両チームを大阪駅からホテルまで提灯(ちょうちん)行列で歓迎するなど“大イベント”に仕立て、市民の関心を呼んだ。そうした戦略の成果で、野球という珍しいモノ見たさに観衆が集まった。 この香櫨園での野球開催は、いろんな方面に貢献することになった。〈1〉関西での野球の認知度が上がった。〈2〉大阪毎日新聞は販売を拡張した。スタンドがないこともあって原則、入場無料だったが、新聞販売戦略のイベントとして大成功だった。〈3〉阪神電鉄は運賃収入が増えた。大阪、神戸から香櫨園に来る乗客で阪神電車は満員だった。 この3つの要素が、後の全国中等学校野球大会、そして甲子園建設にもつながる。〈1〉関西での野球人気をもとに、〈2〉同業ライバルの大阪朝日新聞社が主催者となって、全国大会をスタートさせた。〈3〉阪神のライバルの鉄道会社、阪急が大阪・豊中に球場を造って、第1回大会を開催した。それに反撃する形で、阪神も鳴尾、そして甲子園に球場を造っていく。つまり、香櫨園の成功体験がなければ、甲子園球場は誕生しなかったかもしれない。 香櫨園ではその後も野球の試合が開催されたが、遊園地自体が、集客減、土地の売却などで13年に廃園した。その跡地は今、閑静な住宅街で、遊園地はもちろん、野球グラウンドの痕跡もない。面影を残すのは、ウォーターシュートがあった池ぐらいだ。 ※取材協力=丸山健夫・武庫川女子大名誉教授
報知新聞社