荒川の土手に埋められた遺体 虐殺の現場は今 「悼」の一文字に託す思い
遺体はどこへ
「始まりは素朴な共感や同情心だったと思います」と西崎さんは当時を振り返ります。 遺体が埋められたままでは「あまりにも忍びない」と、会のメンバーは文献や証言の収集に加え、遺体が埋められたと思われる現場で発掘作業を行いますが、被害者の遺骨は見つかりませんでした。 「後になって分かったことなのですが、虐殺から約2カ月後、1923年の11月に、警察が遺体を掘り起こしてどこかに持ち去っていたことが複数の新聞記事に書かれていました」 西崎さんたちがこの新聞記事の記述にたどりついたのは、別の事件の存在がきっかけでした。 震災直後の9月3日から5日ごろにかけ、現在の江東区亀戸で、震災の支援活動をしていた若者ら10人が亀戸警察署に連行され、署内で軍隊によって殺害される事件が起きました。 「彼らは労働組合員や社会主義者として、震災前から警察に目をつけられていたと言われています」 後に「亀戸事件」と呼ばれるこの事件の被害者の遺体は、朝鮮人被害者らとともに、荒川の土手に埋められてしまったそうです。 当時の東京朝日新聞では「社会主義者九名 軍隊の手に刺殺さる」という見出しで大きく報じられ、東京日日新聞、報知新聞、国民新聞なども詳報しました。 「警察が事件を認めたのは1カ月以上経ってからでした。遺骨の返還を求める遺族に対しては、『朝鮮人らの遺体と混ざってしまっているので、誰のものか分からない』と難色を示し続けました」 事実を隠蔽するような警察側の対応はさらに続いたそうです。 「遺族側は『警察がやらないのなら我々自身の手で遺骨を掘り起こす』と通告したそうです。すると、警察は先回りして現場を掘り起こし、遺骨をどこかへ持ち去ってしまったのです」 当時の新聞記事には、この際の遺族と警察側とのやり取りが詳細に記されています。 こうした在日朝鮮人や彼らと間違えられた日本人、労働運動家などの殺害は各地で発生しましたが、加害者が処罰されたのは一部に留まります。 「荒川での虐殺には軍や警察が強く関与していましたが、『軍隊の行為は戒厳令下の行動として適正だった』として罪に問われることはありませんでした」