なんと現代日本人の「法リテラシー」は江戸時代の庶民よりも低かった?…あまりにも「前近代的」すぎる現代人の法意識
日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏(明治大学教授)の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 【写真】日本の刑事裁判は「推定有罪」?痴漢冤罪を免れるためのシミュレーション ・同性婚は認められるべきか? ・共同親権は適切か? ・冤罪を生み続ける「人質司法」はこのままでよいのか? ・死刑制度は許されるのか? ・なぜ、日本の政治と制度には、こんなにも問題があるのか? ・なぜ、日本は、長期の停滞と混迷から脱出できないのか? これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあると、瀬木氏はいいます。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏は、なぜ本書の執筆を決意したのでしょうか? また、何を訴えたかったのでしょうか? Q 前作の『我が身を守る法律知識』〔講談社現代新書〕はかなり実用的な書物でしたが、今回は打って変わって「法意識」という、かなり抽象的なテーマを論じたものになりましたね。 それはなぜでしょうか? また、本作の執筆動機はどのようなものなのでしょうか? 現代日本人の法意識についてさまざまな視点から論じたこの書物は、これまでの蓄積を踏まえつつ、私の一般書としては初めて、法社会学の、また日本社会論の領域にかなりの程度踏み込んだものです。 そして、前著『我が身を守る法律知識』が私なりの「予防法学」の全体像を提言したものであるのと同様、法社会学・法意識論の間口を広げようと努めてきた私の姿勢をまとめた、学者、著者としての提言でもあります。その意味では、前著同様に、長くあたためてきたテーマです。 もっとも、『我が身を守る法律知識』の記述は、法的紛争を避けるために現代人として身につけておくべき法的知識を網羅したものという意味で、確かに実用的ですね。 それに対し、本書は、日本人の法意識、すなわち日本人の法に関する知識、感覚、観念、意見、態度等が、実をいえばかなりの程度に前近代的なものであり、形式的には一応整っている日本の制定法、現代法との間に大きな溝、ずれ、裂け目があることを論じています。さらにいえば、その結果として、日本の現代法それ自体についても、「基盤が弱く、一皮むけば前近代的」という側面があるともいえます。 本書は、そうしたテーマを包括的、重層的に論じているため、より構造的、社会批判的という違いがあるでしょう。 私の本は、専門書・研究書をも含め、せんじつめれば、すべて私の思想的・感覚的な問題意識から生まれてきたもので、その意味では関連性が高いのです。もっとも、書物・作品ごとに個別テーマ自体は異なっていて、本書では、社会と人々の意識の構造分析に焦点を絞っているということです。 Q 今も少しふれられましたが、そもそも法意識って何なのでしょうか? 自分のこととして考えると、意外に具体的なイメージがわきにくいのです。「あなたの法意識について説明してください」と質問されても、答えに窮してしまいます 。 法意識というのは、さっきもふれたとおり、法に関する人々の知識、感覚、観念、意見、態度等、まとめれば法に関する考え方や感じ方を包括的に表す言葉で、政治や経済、文化等に関する意識と同じ水準の事柄です。 それなのに法意識についてのイメージがわきにくいのは、日本人が、みずからの社会や生活について、法とは関係のないものという思い込みをもっているからではないでしょうか? しかし、実をいえば、法は社会、経済、政治の基盤であり、骨格ともいえるものです。ですから、たとえば経済についていうと、日本の法は、結構厚くて整っている。実は、江戸時代以来そうなのです。経済人も、半ば無意識的にではあってもそのことはよくわかっているから、経済に関する法は非常に重視する。だから、知財高裁はあっという間にできるし、会社法や民事執行法は、何度でも改正を繰り返す。 一方、社会問題を解決すべき法や人々の生活・福祉に関する法は、日本では、何ともお寒いままです。それは、人々が「法を変えなければ社会も変わらない」ということを、ほとんど認識していないからなのです。 たとえば、マキャヴェリからマルクスまで、近代哲学者の多くは、広い意味での法を重視し、それについて詳細に論じていますが、日本の哲学者(「哲学」学者)が彼らのそうした著作に関心を向ける、あるいは彼らの著作をそういう目から研究・分析することは比較的少ないですね。 たとえばそうした意味では、いわゆるインテリも、いわゆる庶民とさほど変わらない。つまり、こと近代的・現代的法意識に関する限り、欧米に比べるとかなり未熟なのです。 そのことをきちんと認識していないことが、バブル経済崩壊後の日本社会の停滞と混迷の一つの原因だというのが私の考えです。ですから、そうした日本社会の病理の一側面を法意識という窓から多角的に照らしてみようと思ったのが、本書の執筆動機です。 Q 原稿の執筆にあたってご苦労はありましたか? これは大変でしたね。 本の執筆というのは1つの作品を作ることですから、常に気力と緊張を要する仕事ですが、たとえば、『絶望の裁判所』〔講談社現代新書〕は、書く前から頭の中ではほぼできあがっていたので、初稿はわずかな時間で書けました。『我が身を守る法律知識』〔同〕も構想は明確だったのですが、相続法を始めとして、正確かつわかりやすい法的記述は難物で、教科書並みの手間がかかっています。そうした記述の大変さと水準を一番よくわかってくれたのは、実は、専門家であるヴェテランの学者や弁護士でした。 本書は、どのようにでも書けるテーマですが、多様な分野で働いたり考えたりしている一般の人々と法律家の双方に訴える、興味深くて納得させる内容にすることが、超絶的に難しかったですね。 初稿、二稿については編集者から種々クレームが出て、私には異論もあったものの、でも大筋は納得できる内容だったので、十分に時間を空け、気力を充実させた上で、第三稿で大幅に書き直し、それについては編集者も賞賛してくれました。 文学や映画等からも学んだ叙述、視点の変化、編集等の技術を生かして、従来の記述を大幅に切り捨て、新しい目で、より的確に、印象の深いエッセンスとしての部分だけを汲み取るなどの工夫をしました。その結果、比較的重い内容であるにもかかわらず、272頁という規模に圧縮できました。 Q 確かに、一見平明で面白く読めるのに、読み終えると、ずっしりと重いですね。そして、自分が内々感じていながら言語化できないでいたことが的確かつ鮮やかに言語化、体系化されてゆく快感を味わうことができました。思わず膝を打つような記述が多かったです。 たとえば、第1章ですと、『不思議の国のアリス』におけるアリスの法意識と現代日本人の法意識を対比しながら法意識の重要性やその意味について考えさせる部分などがそうですが、それはほんの序の口で、どの章にも、そうした驚きや発見がありますね。 ありがとうございます。 「センス・オブ・ワンダー」とかチャーミングな意外性、驚きというのは、芸術だけでなく、たとえば社会・自然科学の古典にだってあるものですよね。 私自身がどこまで達成できているかは別として、そうした要素の重要性を常に意識しながら書いているのは事実です。この本では、執筆に時間をかけ、かなりの苦労をしたことで、それには割合成功したのではないかと思っています。 Q さて、日本人の法意識の法社会学的分析書としては、民法学者・法社会学者川島武宜(かわしま・たけよし)氏による『日本人の法意識』〔岩波新書〕をまず思い浮かべますが、本書を執筆にするに当たって、同作を意識されましたか? これは、当然意識しています。日本における法社会学の古典ですから。 実は、川島書は、非常に影響の大きい書物であった反面、批判も多いのです(個性的な人物で、ある意味、意外に敵というか反対者も多かったようです)。しかしながら、川島教授は大学者で才人でもありましたから、正面からこれに対抗するような本は、あまり書かれてこなかったのですね。みんないろいろ言うけれど、同様のまとまった書物はあまりない。 私は、元々学者タイプではありますが、長く実務家をやっていて、学界とのしがらみはあまり大きくないし、裁判官時代以来日本人の法意識や日本社会のあり方については書いてきたので、ここらで一つ思い切ったことをやってもいいだろうと考え、この伝統的なテーマに再挑戦したわけです。 当然川島書に対するリスペクトはあり、また、問題意識や方法論にも共通する部分はあります。 しかし、本書では、川島書が論じた、法と権利、所有権、契約、民事訴訟に関する基礎的な法意識については、第6章で、川島教授の見解にもふれつつ私見を展開するにとどめています。 一方、本書では、法制史、家族法、刑事司法、裁判と裁判官に関する幻想、制度と政治、法意識の基盤にある精神的風土といった多角的な観点から、また、川島の時代から約60年を経た現代にフォーカスを絞って、より広いスケールで法意識をとらえることに努めています。 Q 「川島法意識」は、明治時代ないしそれ以前から連なる前近代的な封建的法意識が今なお日本人に脈々と受け継がれており、さまざまな影響を及ぼしていると主張していますが、瀬木さんも同様なお考えでしょうか? 基本的には同様ですが、視点やニュアンスについてみると、異なる部分もあります。 第2章で論じたような法制史・比較法思想史等の書物を読むと、現代日本人の法意識には、江戸時代あるいはそれ以前の時代から連綿とつながる側面が多いことに驚かされます。それは事実です。 法が統治と支配の手段であり、したがって民事領域が軽視されていたが、江戸時代には商人法は独自の発展をみた。刑事司法では、自白偏重・推定有罪・嫌疑をかけられること自体が罪、ケガレという考え方が強い。民事訴訟では、裁く側である武士の面子を保つために和解が非常に重視された。裁判官が判断官というより司法官僚である一方、実際の審理をあまり担当しない奉行が「大岡裁き幻想」の対象でもあった。 川島教授はあまりふれられていませんが、たとえばそういう側面については、学者兼実務家の経歴をもつ私から見ると、ある意味、慄然とするほど変わっていないと思います。 一方、川島教授は、戦後日本人の法意識について戦前とのつながりを非常に重視するとともに、日本は江戸時代以来ずっと前近代的な遅れた社会だったから人々の法意識もこうなのだ、という論旨で書いています。この点では、戦後左翼思想の影響も強いように思います。 これについては、確かにそういう部分もあるけれど、たとえば江戸時代の日本人の法意識にはそれなりに成熟した側面もあり、むしろ、明治時代以降の抑圧がその後の日本人の法意識を押さえつけてきた部分もあるように思います。また、戦後日本人の法意識には、私が子どもだったころ、1960年代でも、戦前とはかなり異なった部分もあったと思います。そして、そのような変化は、その後ももちろん続いています。 全体として、川島教授の所説のうち戦後初期の左翼公式主義的な見解に近い部分についてはやや違和感も感じる、ということです。 Q 確かに、日本法の歴史を分析する第2章で非常に興味深く感じたのが、江戸時代の庶民の法意識の高さです。ことによると、ある分野では現代の日本人よりも法的リテラシーが高いように感じました。 近年、江戸時代の民事訴訟に関する研究は進んでおり、その中から歴史学者の渡辺尚志(わたなべ・たかし)教授による古文書研究の成果を特に採り上げて分析したのですが、渡辺教授によると、百姓(これは当時は一つの確立したステイタスを示す言葉だったようです)は、たとえば川島教授のいうように訴訟嫌いではなく、非常に果敢に自村の権利や村内の行政のあり方について、訴訟で争っているのですね。子どもたちまでが過去の訴訟記録を教材にして学んでいたというのですから、そうした部分では、現代よりずっと法意識は高かったともいえるのです。 まあ、当時の権利意識というのは、個人のそれではなく村落共同体や家のそれだったので、権利を表す一般的な言葉自体がなかったわけですが、右のような限定された側面についていえば、強固な「権利意識の実質」もまたあったのだと思います。 むしろ、明治以降の政府が、一神教の神にも近いような疑似立憲君主的天皇制の下に、そうした人々の意識の利用できる部分を組織、収奪してしまったために、かえって人々の内発的な法意識が衰えてしまったという側面もあるように思います。 Q それはとても興味深い見解ですね。 そのことに関連して、瀬木さんは、この本の中で「現代日本人の法意識を考えるうえで見逃せないのが、法の歴史における『切断』である」という指摘をされています。この「切断」についてもう少し詳しく説明していただけないでしょうか? 日本は折衷文化の国で、昔から、海外の文化を採り入れて日本独自のものに洗練してゆくことは、非常にうまかったですね。文化という側面ではそれは見事に成功し、中国・韓国やそのほかのアジア諸国とは異なった独自のユニークな文化を形成しました。そのことは、現代の世界では広く承認されていると思います。 しかし、法の移入・継受という側面については、そうした折衷と洗練はあまりうまくいっていなくて、むしろ、法の歴史における「切断」という側面が目立つのです。 中国の律令制継受、明治期のヨーロッパ法継受、戦後のアメリカ法継受、いずれも、基盤も思想も異なる法が木に竹を接がれたようにぎくしゃくしたかたちで行われた側面が強い。また、法の機能のうち「支配と統治のための手段」という側面ばかりが強調されて、「法の支配」や「手続的正義の原理」という欧米法の核心にある原理はあまり根付いていない。 そのために、法と人々の法意識の間にはいつも大きな溝、ずれがあり、一般市民のみならず、いわゆる知識人も、法にあまり知識・関心がない。また、実務家・学者の法律家層にも、こうした溝やずれの存在をちゃんと意識していないという問題があるのです。 そうした部分に「現代日本人の法意識」の根本問題があるというのが、私の法意識論の中核にある考え方です。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)