歌手・由紀さおりさんの元気の源はチャレンジ 「目標に向って決して諦めないこと」【生きるクスリ】
【私が生きるクスリ】 由紀さおりさん(歌手) 今年が歌手生活55周年の由紀さおりさんは5月に、新曲「人生は素晴らしい」のお披露目を兼ねたコンサートをパリで行う。大ヒットした「夜明けのスキャット」から数々の名曲を歌い続けてきたが、元気の源はチャレンジし続けることだ。 【写真】テレビから消えた? りんごちゃんは今…SNSで「激瘦せ!」とバズるも真相は「モリモリ食べて元気」 ◇ ◇ ◇ これまで私は一度も諦めたことがなかったんです。いつも目標を設定して、それに向かって突き進んできた。目の前にニンジンをぶら下げられた馬のようにね(笑)。そんな例えをいくつかお話ししたいと思います。 姉の安田祥子と80年代に始めたのが童謡コンサートです。どんなコンサートでも一度始めたら10年はやろうと決めていました。まだバブルがはじけていなかった頃です。 当時、応援してくれる方がいて、お正月にはロサンゼルスのリトル・トーキョーに呼んでもらっていました。その前にはホテルで身寄りのない方にターキーを配るクリスマスのドネーションが開かれる。その際、ディナーショーをやってほしいと頼まれ、姉と歌ったわけです。 ■カーネギホールで実現した童謡コンサート そうしたら「これはカーネギーホールでやった方がいい」と言われたんですね。私は童謡コンサートを10年続けられていたらやろうと思って歌い続け、95年にカーネギーホールでの最初のコンサートが実現しました。2回目は3年後の98年です。 すると「カーネギーホールで3回やった人はいないから、もう1回やったらどうか」という話になった。だけど、私はむしろワールドツアーをやりたかった。シドニーのオペラハウスで歌いたいと思っていましたから。結局、それも実現し、世界各地を回り、2002年にオペラハウスで最終日を迎えることができました。やると決めたら諦めない。それがカーネギーホール、オペラハウスにつながったと思っています。
針の穴を通すよう人とのつながりで実現したコラボアイテム「1969」
ピンク・マルティーニとのコラボレーションは偶然が重なったたまものでした。コラボアルバム「1969」がリリースされたのは11年、東日本大震災の年です。スタッフのひとりがYouTubeで「天使のスキャット」のカップリング曲「タ・ヤ・タン」を日本語で歌っているピンク・マルティーニを見つけ、それがきっかけで10年のピンク・マルティーニのビルボードライブ東京のコンサートに飛び入り出演するんですね。 震災前は新曲を誰に書いていただくか悩んでいた時期です。AKB48全盛の時代ですから秋元康さんに相談した方がいいよと言ってくださる方がいたので、お会いしました。秋元先生に「由紀さんの『夜明けのスキャット』はラジオの時代のヒットだよね、あの時代の歌をもう一度やるのもいいけど、ただやるだけじゃお客さんは来ないよ」と言われてグサッときました。先生が書いてくださることにはなったけど、私の中ではモヤモヤしたものがありました。 その後、しばらくしてピンク・マルティーニとのカバーアルバム制作のアイデアが出てスタッフが何度もメールのやりとりをしたのですが、具体的に進まない状況が続き、スタッフが一度打ち合わせに会いに行きました。そんなさなかに震災が起きるわけです。仕事は震災ですべてなくなりましたから、自分でポートランドまで行って確かめたいと思い立つんです。私に不動産関係の知り合いがいて、その方が海外の賃貸契約を確認するのにポートランドにも定期的に出かけているという話を聞いていました。そして、その方が利用している旅行会社の日本人の担当がピアノのトーマスさんととても仲がいいということもわかった。 私がスタッフにポートランドに行きたいと直訴したら、トーマスさんと仲がいい人がいるなら一人でも大丈夫だろうと理解してくれて、出かける準備を始めました。それでその方に連絡したら、電話が通じて「新幹線の中から話してます」というじゃないですか。「どうしたんですか」と聞いたら、「ポートランドの日系人の方を旅行に連れてきている」と。 私はトーマスさんに会いたいとお願いしました。聞けば、その人はフジテレビで放送された「オレゴンから愛」を撮っていた時に仕切っていた旅行会社の社員で、3.11で被災した人のためのチャリティーコンサートをやることになっている、それをプロデュースするのがトーマスさんだというのです。もうトントン拍子に話がつながりました。 それならとポートランドに出かけ、トーマスさんのピアノで「夜明けのスキャット」「故郷」「赤とんぼ」を歌いました。それが認めてもらえるかどうかで彼らとコラボできるか決まると思ったので、ものすごく緊張したのを覚えています。トーマスさんに「2日間くらいポートランドに残ることができるか」と言われた時はホッとして、「大丈夫」と即答していました。 仕事は何もないわけですから、GWに10日くらい、またアルバムのレコーディングのためにポートランドに来ることを約束しました。トーマスさんもレコーディングできるのはその10日間だけということでした。私は出かけて行って、残りの曲を全部レコーディングして帰ってきました。 「1969」はジャズチャート1位になり、世界的なヒットになったわけだけど、そもそもは新幹線にいた神様が接点をつくってくださったこと、私の友人の友人がトーマスさんと私をつなぐ役割をしてくれたことで実現したアルバムです。彼らを知ってから完成するまで3年くらいかかりましたが、やはり諦めなかったから実現できたことだと思います。