【紅白出場わずか2回の謎】KinKi Kidsが背負った「SMAPへのカウンター」の壮絶な宿命
予想外の大ヒット
1997年7月、KinKi Kidsは『硝子の少年』でCDデビューを果たした。2人は18歳、結成から6年を経ている。 【写真】『SnowMan』岩本照「未成年女子とラブホで飲酒」 オリコン初登場1位、180万枚を売る大ヒットとなった(その後、現在まで27年間にわたり、47作連続でシングル1位を獲得中である)。 これには驚いた、と中居正広ももらしていた。トーク番組『だれかtoなかい』に堂本光一がゲスト出演した際のことだ。SMAPが1位を獲得するのはデビューから2年6ヵ月後、実に12曲目にしてである。KinKiの爆発的なデビュー・ヒットは、中居にとってもよほど予想外のことだったのだろう。 『硝子の少年』の作曲は山下達郎。当時の達郎はヒットにめぐまれず、引退まで考えたという。それが同曲の大ヒットと、その後のKinKi Kidsへの楽曲提供によってミュージシャンとしての再生を果たした。 作詞は松本隆で、達郎とのコンビは近藤真彦の『ハイティーン・ブギ』(1982年)以来である。マイナー調の曲で、主題はどこか光GENJIの『ガラスの十代』(1988年)を思わせた。 いい曲だけど、なんだかちょっと古いかな、と私は思った。テレビで唄う2人の姿を見て「『あずさ2号』の狩人みたいじゃないか!」、と。 ◆SMAP楽曲との対称性 一方、当時のSMAPは『SMAP×SMAP』放送開始から1年を経て、最初の人気爆発期を迎えていた。レゲエ調の斬新な曲『セロリ』をヒットさせている。作詞作曲は、山崎まさよし。さらにSMAPの最高曲ともいわれる『夜空ノムコウ』へと続く。作詞は、スガシカオ。Jポップの新しい才能を次々と吸収して、アイドル歌謡曲の枠を超えた新たな地平を切り開いていった。 ところが『硝子の少年』は……。はっぴいえんどの松本隆と’70年代ニューミュージックの山下達郎、さらにはフォークソングの神様・吉田拓郎(『全部だきしめて』)が加わる。SMAPの斬新さとあまりにも対照的だ。どこか懐古趣味で反動的にさえ見えたものだ。 今にして、はっきりとわかる。いや、実はこれこそが、ジャニー喜多川の大いなる戦略だったのだ、と。 SMAPは、それまでのジャニーズの美学や伝統を根本的に引っくり返した。光GENJIのキンキラキンの衣装を脱ぎ捨て、カジュアルな普段着のオシャレへ。バク転もバク宙もやらない(できない?)、不ぞろいで脱力したJポップを口ずさむ。それはバブル崩壊後の“失われた時代”と呼ばれた平成の「ユルい」気分にぴったりだった。 飯島三智という傑出したマネージャーが、ジャニーズ帝国内に、SMAPという独立国を築き上げたのだ。 ジャニー喜多川は充分にそれを評価した。その上で次なる一手を打つ。それこそが新たな2人組だった。 そう、KinKi Kidsとは、SMAPに対するジャニー喜多川からの返答なのだ。 ◆松本人志をリスペクト 関西出身の2人は、若手漫才師のようにフリートークが達者である。タメ口しゃべりで同世代の女子たちを笑わせた。そのいかにもリアルなイマ風の少年たちが、音楽が鳴ると、途端にキリッとした表情になり、華麗なるジャニーズ・ワールドを唄い踊るのだ。 哀愁を帯びた堂本剛の切ない声音と節まわし、ベビーフェイスの堂本光一は軽々とバク転、バク宙をキメてみせる。その意外な驚き! <新しい酒を古い皮袋に入れる>という新約聖書の言葉がある。どんなに新しいものでも古い形式に収まれば映えない、という否定的な意味だった。しかし、ジャニー喜多川は、それを逆手に取ったのである。 むしろ新しいものと古いものとのミスマッチこそが、予想外の輝きを生み出すのだ、と。 いや、KinKi Kidsは<新しい皮袋>であって、そこに古い酒を入れることで、まったく未知の新しい味わいを醸成するのである。 テレビ出演を拒否することでフォークの神様となった昭和のレジェンド・吉田拓郎と、30歳以上も若いアイドル=KinKi Kidsがバンドを組む。この予想外のミスマッチの面白さは、画期的な音楽バラエティー番組『LOVE LOVE あいしてる』となった。 おかげで(山下達郎に続いて)吉田拓郎もまた再生を果たしたのである。 堂本剛は、松本人志をリスペクトしていた。お笑いの世界では、ダウンタウン以前と以後に分かれると言われる。ことに松本のカリスマ性は絶大だ。彼に影響を受けてお笑いをこころざす後輩芸人は数多く存在する。 しかし、アイドルで、しかもジャニーズ事務所の所属でダウンタウンや松本人志の影響をこれほどモロにあらわにしていたのは、堂本剛が唯一だろう。松本には単体でボケ回答を展開する『一人ごっつ』なる大喜利番組があった。剛もまた明らかにその影響下にある 『小喜利の私』というイベントを開いている。 これを「パクリの黒歴史」と評する者もいるが、私はそうは思わない。むしろ堂本剛のリスペクトを通して、松本人志の面白さが若い世代のアイドルファンの女子たちに広がったのではないか? ◆「カウコン」の象徴として ダウンタウンがブレークして、よしもと発の関西のお笑い芸人たちが大挙して東京へ押し寄せ、テレビのバラエティー番組を占拠した。 同様に、KinKi Kidsの登場がきっかけとなり、ジャニーズ事務所に関西旋風を巻き起こす。関ジャニ∞、ジャニーズWEST、なにわ男子……等、いわゆる関西ジャニーズから続々と新グループを輩出した。 それまで東京の少年アイドルの事務所だったジャニーズに、関西の男子のノリを吹き込んで、にぎやかにした。KinKi Kidsは(先の山下達郎や松本隆、吉田拓郎ら’70年代の)時間軸のみならず、(関西との)空間軸においても、ジャニーズを活性化したのだ。 これほどヒット曲を連発しているKinKi Kidsなのに、レコード大賞も受賞しなければ、NHK『紅白歌合戦』の出場もわずかに2回しかない。それは彼らがジャニーズ事務所が設立したレコード会社「ジャニーズ・エンタテイメント」の第1弾アーティストであったことと関わる。既存の音楽業界と別のところに独自の窓口を作って、KinKiが大ヒットすることで道を開き、その後のジャニーズ事務所に莫大な版権収入をもたらした。 KinKi KidsのCDデビューの翌年(1998年)より、東京ドームで大晦日から元旦にかけてジャニーズ・カウントダウンライブが開かれている。その中心には、常にKinKi Kidsがいた。 他方、SMAPは1991年以来、ずっと『紅白歌合戦』に出場しつづけている。そうしてSMAPだけがカウントダウンライブにまったく姿を見せない。なるほど毎年、大晦日の夜にはくっきりとジャニーズの分裂があらわに見えたものである。 平成最高の人気グループSMAPを、さながら包囲するかのような後続のジャニーズのアイドルたち……いつもその先頭には、KinKi Kidsが立っていた。 取材・文:中森明夫
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