「俺達の福浦」の大合唱に押されてロッテ福浦が史上52人目2000本安打を達成
1993年のドラフト7巡目で投手として習志野高校からロッテに入団した。その年のドラフトの最終指名選手で背番号は「70」だった。だが、肩を痛め投手としての練習がなかなかできなかったため、当時2軍打撃コーチを務め、のちに監督となる故・山本功児氏に野手転向を薦められた。その年の夏に正式転向、ファーストとしての特守、特打を強制的に課せられる日々を重ねた。1軍でのプロ初ヒットは、近藤昭仁監督となった4年目、1997年7月5日のオリックス戦でフレーザーから。 「本当、まさか、ここまで来れると思っていなかった。球団を始め、監督、コーチのみんなが後押ししてくれた。コーチ、裏方さん、トレーニングコーチ。たくさんの人に支えられ達成できたと思う」 試合後、球場内の特別ルームで行われた会見では、2度も、3度も、家族も含め、支えられた人たちの名前をあげて、感謝の意を伝えた。今やりたいことは?と聞かれ、妻への電話と、山ほど来ている祝福メールへの返信だとも言った。それだけで福浦というプレーヤーの人間性が十分にわかる。今は亡き山本功児氏と、母親の墓参りにいき、2000本を報告したいという。 安打製造機と呼ばれた。その長所はバットコントロールに尽きる。 習志野高の先輩で阪神SEAの掛布雅之氏も「千葉出身で千葉の球団一筋。みんなに愛されながら長くプレーしての2000本安打は胸を張っていい。心からおめでとうと言いたい。とても幸せなことだと思う。プライベードでの親交はないが、球場で顔を合わせると、いつも恐縮して挨拶にきてくれる。習志野高出身で、2000本を達成した谷沢健一さんとも、私とも同じ左打者だけどタイプが違う。福浦の特筆すべき点は、その柔らかさとバットコントロール。右投手、左投手に関係なくバットがボールに縦の角度で入るから打球が広角にライナーで飛ぶ。その感覚は天性だし崩されても対応できる能力は、他に類を見ない」と評価する。 2000年から8年連続で100安打以上を記録、2001年には首位打者タイトルを獲得している。 その裏には凄まじい努力と常に100%の準備があった。 立花龍司トレーナーと出会い、ウエイトトレーニングの重要性を知り、いち早く取り組んだ。今なお「チーム一」と呼ばれるほどの時間をそこに費やす。オフの練習量は、年々増える傾向にあり、大晦日の練習は恒例行事。3年前には、球団に年末年始に球場施設を使えるように直訴したほど。42歳を超えて、現役を続けられている理由は、その練習量と鍛え抜かれた肉体にある。 そのバットコントロールは感性だけではない。対戦相手の映像を繰り返し見て、独自の分析方法で、丸裸にする癖盗みの名人でもある。データを洗い、投手の球種の癖を見つけ出して打席に向かう。 「あたり前のことをあたり前に毎日やる。ルーティンは何も変わっていない。試合に出る以上、準備をすることは、いつも思っていること」 この世界で当たり前のことを当たり前にやることが、いかに難しいか。