【山手線駅名ストーリー:新宿】乗降客数ナンバー1の巨大ターミナル、そもそもは「日本橋から高井戸までは遠すぎた」ことが発展のきっかけ!?
新宿と「水」の意外だが深い関係
さて、前述の「南豊島郡淀橋町大字角筈字渡辺」についてだが、「淀橋」は橋の名で古くからあった。 そもそも現在の新宿区と中野区の境にあった橋で、3代将軍・家光が鷹狩りに来た際に、その辺りが山城国(現在の京都府)の淀の景色に似ているので「淀橋」と呼ぶよう命じたなど諸説あるが、真偽は定かではない。 その後、現在の西口一帯を指す地名として定着し、新宿区の前身の一つである「淀橋区」の区名にもなった。ちなみに、昭和世代には「新宿西口駅の前カメラはヨドバシカメラ」CMソングでおなじみの「ヨドバシカメラ」の屋号はこの地名からとったものだ。 「角筈」「渡辺」は、名主(村落の指導者)の渡辺与兵衛(興兵衛とも)が、鹿の角を付けた杖(つえ)を携行していたことにちなむとも、与兵衛の髪型が奇抜で角や矢筈(先端がV字形の棒状の道具)に似ていたからとも言われる。
角筈は新宿駅東口と西口をつなぐ地下道「角筈ガード」に名残を残す程度で、地名としては消えてしまったが、新宿中央公園の一角にある十二社(じゅうにそう)熊野神社は紀州の熊野三山を起源とし、応永年間(1394年~1428)創建と伝わる一方、異説として勧進したのは渡辺与兵衛ともいう。
境内には江戸時代後期の狂歌師・大田南畝(おおた・なんぽ / 1749~1823)が銘を刻んだと伝わる水鉢が置かれている。新宿区の指定有形文化財だ。水鉢の左側には「淀橋」の文字もある。新宿中央公園は淀橋に位置した水の景勝地だった。かつては豊かな水をたたえ、江戸庶民の憩いの場だった。大小の滝や水車小屋もあったという。
1886(明治19)年、玉川上水の水が原因となってコレラが発生し、9800人余の犠牲者を出した。そこで明治政府は、近代水道整備へと乗り出し、この地に浄水場が建設された。1898(明治31)年の完成から、1965(昭和40)年の移転まで、現在の高層ビル街は満々と水を蓄えた貯水池だったのだ。 敷地面積は約34万平方メートル。東京ドーム約7個分。当時、富士山の見える見晴台として浄水場職員の憩いの場だった「洋風東屋・富士見台六角堂」が、今も新宿区中央公園に残っている。