取り調べでは「虚偽の供述」強要も~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#20
虚偽の処刑参加を自白
(ダイヤー調査官) 「君が処刑に参加したという陳述書を書いて署名すれば、今日の夕方は家に帰してやる。そして後日裁判が行われたら、単に証人で呼び出すかもしれぬ。しかし、もし『処刑に参加していない』という陳述書を君が書けば、巣鴨拘置所に入れて『処刑に参加しました』と書くまでは拘置所から出さぬ。君はどちらを選ぶか」 結局、総司令部法務局に通うこと15日間、4度も「自分は処刑に参加しておらず、何もしていない」という陳述書を書き上げたものの、どれも破って捨てられ、受け付けてもらえず、仕方なく最後には「虚偽の処刑参加」を自白した形で署名させられたという。この二等兵曹は、1審で絞首刑を宣告され、約1年後、重労働20年に減刑された。1954年12月に仮出所している。
実弾入りの拳銃を突きつけられて
ほかにも石垣島事件の関係者で、取り調べの際に拷問を受けたと書いている人がいた。判決時23歳位の上等水兵だ。愛媛県出身のこの人は、山口県庁で同じくダイヤー調査官と山口通訳に取り調べを受けているが、「彼等は虚偽の供述を強要し、首を絞め、頬を殴打すること数回に及ぶ。取り調べ中に拳銃の実弾を入れたり、突きつけたりして強迫した。調べ中に思考していた時は日本の警察官に命じて、一般囚人が居る山口刑務所の独房に監禁された」という。 上等水兵は、ダイヤー調査官から「君は上官の命令によって行動したゆえに罪はない。これにサインすればすぐに釈放する」と言われたので、虚偽の口述書にサインをした。この事を裁判中述べたが、ダイヤー調査官のうその証言により、取り消されたと書いている。
"敵愾心"…自分も突いたかもしれない
前出の二等兵曹は仮出所後、10年以上が経過した1967年に、法務省の聞き取り調査に応じている。その中で 「私が最後に刺突参加、殴打について肯定したのは、長い日数にわたる取り調べにより根気を失い、もうどうにでもなれと半分、捨て鉢になってのことであったが、私の部下の衛兵の中には敵愾心で『こんチクショウ』という気持ちで殴打した者も居たし、私自身も、もし衛兵伍長としてではなく現場に行っていたら、突いたかも知れないのだという考えも交じっていた。それにしても、ダイヤー調査官さえ現れなかったら、最後まで否認したであろうと思う。自分で自分の首を絞めるような結果になったことは、今から考えると残念でならない」 と語っている。